三国志の諸葛亮孔明はいつも手に扇のようなものを持ってますが、あれは何の為のものでしょうか?
わかる方ぜひ教えてください。よろしくお願いします。
なんのためと言えば、指示棒の変わりであり、勿論扇ぐのにも使います。口元を隠したりもしますね。
>>赤壁の戦いのおり、東南の風を諸葛亮が呼んだとの逸話から
>>風=扇というイメージで作画側が持たせているだけです。
横槍ですが、これはウソです。
風=扇という関連を指摘している学説はありません(そもそも「作画」って言い方がもう...)。
>>ちなみにこの逸話にも裏があり、赤壁の地ではある特定の時間帯だけ
>>日頃吹いている方向と異なる方角(東南)から風が吹くそうで、
>>どうやら諸葛亮はその情報を事前に得ていたそうです。
>>決して神の所行では無いわけです。
のちの吉川英治の小説「三国志」などでは、そのような解き明かしをしていますが、こういうのは近世以降の後付けした説明であり、つまり「孔明が風が吹くことを知っていた」というのも実は「脚色」に過ぎません。
『三国演義』はあくまでも「祈祷して東南の風を呼んだ」のですし、史書『三国志』にはもとより東南の風云々の記載すらありません。
誤解があってはいけないので、ここは念押ししておきます。
※注釈には「東南」とあったようですね。これは失礼致しました。
いずれにせよ諸葛亮が起こした風でもなければ、それを諸葛亮が事前に知っていたとかという話ではないということです。
熱くなりすぎないように、頭を冷やすため
とレッドクリフで言っていました。
横槍ですが、
>『三国演義』はあくまでも「祈祷して東南の風を呼んだ」のですし、史書『三国志』にはもとより東南の風云々の記載すらありません。
誤解があってはいけないので、ここは念押ししておきます。
正史三国志、周瑜伝本文には「…火を放った。折りしも強風が猛り狂い…」とあり、さらにその部分の註『江表伝』には「ちょうど『東南』の風がはげしく吹いていたので…」とあります。本文だけでも何かしら火計を際して風が吹いたことが伺え、裴註に至っては東南の風が吹いていたとばっちり書いてあります。ま、諸葛亮は全然関係ないのは確かですが。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1159522206
で似たような回答をしております 感覚的にはファッションですね
hidaka1125様が突っ込んでいらっしゃるのでせっかくだから記載すると
又豫備走舸,各繫大船後,因引次俱前。曹公軍吏士皆延頸觀望,指言蓋降。蓋放諸船,同時發火。時風盛猛,悉延燒岸上營落。頃之,煙炎張天,人馬燒溺死者甚衆,軍遂敗退,還保南郡。江表傳曰:至戰日,蓋先取輕利艦十舫,載燥荻枯柴積其中,灌以魚膏,赤幔覆之,建旌旗龍幡於艦上。時東南風急,因以十艦最著前,中江舉帆,蓋舉火白諸校,使衆兵齊聲大叫曰:「降焉!」操軍人皆出營立觀。去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,往船如箭,飛埃絕爛,燒盡北船,延及岸邊營柴。瑜等率輕銳尋繼其後,雷鼓大進,北軍大壞,曹公退走。備與瑜等復共追。
の
周瑜伝本文が『時風盛猛,悉延燒岸上營落』
江表伝は『時東南風急,因以十艦最著前,中江舉帆,蓋舉火白諸校,使衆兵齊聲大叫曰:「降焉!」操軍人皆出營立觀』部分です
諸説の一つで対話する時に口元辺りを隠し
表情からの真意を探らせないようにする為とか。
出典は忘れましたが扇の羽は諸葛亮が
退治した怪鳥で拵えたものだという伝承があります。
「白羽扇」
お尋ねの「孔明扇」とも呼ばれるものですが、コレは当時の遊学した先で流行っていたものらしく。学者や知識人が愛用していたようで、それを真似てか学生達がよく持っていたものらしいです。
孔明先生も流行には敏感だったようです。
史実では無いのはさておき、軍配の代用かと、当然あおいだかも知れないよね....。トレードマークとしてお気に入りだったのかもね。
あれは演出です。
実際に常に扇を持ち歩いていたという史実はありません。
赤壁の戦いのおり、東南の風を諸葛亮が呼んだとの逸話から
風=扇というイメージで作画側が持たせているだけです。
ちなみにこの逸話にも裏があり、赤壁の地ではある特定の時間帯だけ
日頃吹いている方向と異なる方角(東南)から風が吹くそうで、
どうやら諸葛亮はその情報を事前に得ていたそうです。
決して神の所行では無いわけです。
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