横山光輝の三国志を読んでいて思ったんですが…劉備が荊州4郡を奪る時、武陵の鞏志はすぐに歓迎され、太守にされました。
でも長沙の魏延は、やたら孔明に疑われ、処刑すべきとまで言われていました。同じように、太守を討ち、城を明け渡したのに、この違いは?
★
孔明には極度に嫌われていますよね?劉備は↓のように全幅の信頼を置いていて、魏延もそれに応えようとしていた。
219年、漢中王に即位した劉備が成都に帰還する際、漢中の地を要害とした。人々は重鎮の張飛が起用されるであろうと思っていたが、予想に反して劉備は魏延を督漢中・鎮遠将軍に抜擢し、漢中太守を兼務させた。劉備は群臣との会合の場で、魏延に重任を拝命する際の抱負を問うたところ、魏延は劉備に対し「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せて来るならば、大王のためにこれを防ぎ、配下の将軍が10万の兵でやって来るならば、これを併吞する所存でございます」と語り、劉備や群臣はその勇敢な発言に感心したという。
しかし、劉備に仕える際に孔明に散々注意されたのにも関わらず、益州攻略において抜け駆けして黄忠に救われているので、才能は十分でも協調性に問題のある欠点の目立つ人物ではあったみたいですね。これでは、孔明の目利きが確かであったと言わざるを得ませんが、蜀の人材薄では貴重な戦力であった事も事実でしょう。
蜀でなく魏であったら、そこそこ有能な武将として天寿を全う出来たでしょうか?はたまた、諸葛誕や毌丘倹のように反乱の首謀者として討たれていたでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BB%B6
[出展:ウィキペディア]
★
魏延の場合は、後年の諸葛亮の死後の反乱の伏線です。諸葛亮が反骨の相を見抜いたというわけ。鞏志の件は劉備の度量を強調するため。史実では反骨の相もないし、韓玄は黄忠に説得され、北へ去り、鞏志は架空の人物です。全ては劉備と諸葛亮を持ち上げた三国志演義の創作。
他の回答者さんと被ってしまいました。
それはズバリ孔明を持ち上げる為です。
魏延は後に反乱を起こすので、それを知っている作者が孔明がいかに先見の明を持ち合わせてるかを表す為に作為されているのです。
魏延は韓玄を殺したのと合わせ二回反乱を起こしています(一回目は劉備たちが襄陽で矢を射られた際に)。まぁ多少疑われてもしゃーないわな、ということでいいんでは?
鞏志は最初から降伏する気で金旋を諌めてるが、魏延にはそういった話はない。ただ単に負けそうだったから反乱を起こして保身を図った、と見ることも出来ます。
まぁ一番の理由は孔明がパッと見て気に喰わなかっただけでしょうが。演義が脚色を加えたものである以上少しの矛盾は仕方ないでしょうね。
0 件のコメント:
コメントを投稿