三国志で好きな武将は誰ですか!
三国志で嫌いな武将は誰ですか!
一番すきなのは孔明様ですが、武将ではないので(^^;
武将で一番好きなのは趙雲ですね。
嫌いなのは馬謖・・・。
あんたがいなきゃ蜀は・・・・・・といまさら言ってもしょうがないのですが、悔やまれますね~。
好きな武将は、てんいとしゅうたいです。
理由は、二人とも君主を守ってかっこいいから
嫌いな武将は、劉禅です。
理由は、劉備が亡くなった後の情けなさから
好きなのは陸遜です。非常に無欲だったので財産はほとんどなかったとか・・・。
姜維も好きです。諸葛亮の死後、一人で奮戦しているところがかっこいいなあと思いました。
嫌いなのは、呂布です。二人(丁原と董卓)も裏切るなんて最悪だと思いました。
好きなのは曹操、あれだけの権力を手にしながら、自分が天子とならなかった初志貫徹っぷりは素晴らしい。
嫌いではないが、邪魔だなと思ったのは諸葛亮と劉備、こいつらがいなきゃ曹操時代に乱世は終わって平和になってた。
第一劉備はヤクザの親分じゃねぇか・・・
>tacto3125dwさん
赤兎馬が出てきてることから演義での描写のことを言ってるんだろうが
呂布と丁原は実の親子じゃないぞ。
呂布は忠義心がないんじゃなくて、素直すぎて乱世で生きるのが難しかっただけ。
好きな武将は周瑜、諸葛孔明です。
あと三国時代末期を飾ったライバル姜維と鄧艾も好きです。
僕が好きな武将は、
趙雲子竜
理由は、長坂の戦いで劉備の息子の阿斗を救出するために
曹操軍に突入していったから
嫌いな武将は、
呂布奉先
理由は、菫卓に赤跳馬をあげる代わりに実の父を殺せといわれ殺してしまい
その後、菫卓までも自分の手で殺してしまう、忠義心がないため
好き・・・趙雲
真の武士
嫌い・・・呂蒙(陸遜)
関羽を・・・。
劉備。涿(たく)郡涿県[5]の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。
幼い時に家の前に生えている大きな桑の木を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。
15歳の時に母の言いつけで、従父(叔父)の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な盧植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚がおり、劉備は公孫瓚に対して兄事しており大変仲が良かったという。
学生時代の劉備は乗馬や闘犬、音楽を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には多くの若者が集まるようになった。馬を商って諸国を回っていた中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となった。
黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。
その後、公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。
公孫瓚は袁術と手を結んでおり、192年、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。
この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。
193年、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。
194年、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた。
曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。
好きな武将
カク昭、張任、李厳、文ペイ、法正、朱然、陸杭
(みなあまり表舞台に出てこない?が、渋い活躍をした)
嫌いな武将
哀紹(優柔不断、エリートというだけ)
呂布(天下無双の豪傑だが、思慮が浅すぎた)
好きな武将とのことですので曹操、劉備、孫権は除きます。彼らは君主であって武将ではありませんから・・・その中で最も好きなのは呉に仕えた魯肅という人です。諸葛亮の天下三分の計、周喩の天下二分の計より早く勢力を拮抗させたのち皇帝になるグランドデザインを孫権に指し示しました。ここで注目したいのが、漢王朝の再興に固執しない現実的なものである点です。諸葛亮も周喩も筍イクも漢王朝に流れを汲む儒教国家の成立から脱し得なかった中、魯肅は独自の画期的な方針を打ち出したのです。嫌いな武将は呂布です。呂布は説明不要かと
0 件のコメント:
コメントを投稿