2012年3月29日木曜日

三国志の蜀は 孔明が無理して魏に攻め込まずに 守りを固めて要塞をたくさん作って...

三国志の蜀は

孔明が無理して魏に攻め込まずに

守りを固めて要塞をたくさん作っておけば

蜀の歴史は長く続いていたのでは?







それは違うと思います。もし諸葛亮が北伐をしなければ魏の戦力は増大し、守りを固めます。さらに、魏は当時の中国の大半を支配していたので、戦力が増大し、守りを固められたら、呉と蜀が協力しても討てなくなると思います。

孔明が蜀の守りを固めていたとしても、蜀皇帝が劉禅だったのでいっしょだったと思います。








逆に短命だったと考えます。

なぜなら、蜀漢は、漢王朝復古を大義として劉備を中心に集まった、軍事国家です。魏を討伐しなければ、国の大義が失われ、内乱が起きるのは自明です。

諸葛亮が無理な北伐を行なったのは、そういった事情があったからです。







続いたかもしれません。

ですが、劉氏政権の存在意義も失われたでしょうね。

彼らは漢の復興と魏の殲滅という旗印の下に集まっているのですから、それを否定するとその結束力はあっさりと失われてしまう。いくら守りを固めたところで内から崩れてしまってはしかたありません。

ただ守りを固めて天下の情勢を傍観し、結果国を失った劉表政権や劉璋政権は他人事ではなかったのだと思います。







呉と魏の没落を予見できてたなら良策ですね。

主戦派を抑えるのは大変でしょうが。



ちなみに初めて蜀に割拠し、光武帝と対峙した群雄、公孫述

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E8%BF%B0

も、同じように考え。船体を十層に重ね、欄干を絹で飾った水上要塞

「赤楼帛蘭船」を作らせたり、刺客を放ったりしました。



この「待ち」戦略は、配下の窮地に最前線に出て戦う光武帝を一発で

討ち取り、逆転を狙うには最適でしたが、三国時代の曹操や孫権は親政はしても

最前線に出ては来ない君主なので、負けなくても勝つのは難しいでしょう。

主戦派はストレスたまりまくりそうです。



ちなみに蜀のデメリットは守りが固いとうことは中原での敗北と違い、

裏がえせば成都を落とされるともう逃げ場は無く、かっての公孫述

たちの末路は蜀という棺おけに閉ざされたまま悲惨なものになりました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B2%91

一代で成そうとせず、ひたすら忍耐を続けられれば芽はありそうです。



ただ、隋王朝に滅ぼされた陳国のように、防壁に守られてると次代ごとに

だれてしまいがちになるんですけどね。長期政権の建国者はほぼ一代で

統一を果たしてるので、セオリー的に言うと現実的じゃないかも知れませんが。







続いたでしょうね。

しかし、当時の人口・農業生産力・経済力を考えた場合、

蜀に閉じこもれば魏・呉との国力差はどんどん開きます。

時間が経てば、逆転は絶望的になり、やがて簡単に滅ぼされます。

0 件のコメント:

コメントを投稿