三国志の諸葛孔明についてですが、水曜日のNHKの番組で、
彼は政治面では天才的な能力を発揮したが、軍事面では弱かった、と解説の先生に言われてました。
ちょっと意外だったのですが、軍事面でも軍師として天才的な能力を発揮していたのではなかったのですか?
彼は有能な功臣ですが、綿密に言えば「軍師」ではありません。
いわば、机上の空論なのです。
知識は持っていたけれど、
いい年まで引きこもって本を読んで農耕をしたりしていたので、実戦経験も無いし、
結局入蜀した後も彼が立った戦はほぼ負け戦しかありません。
しかし内政では手腕を発揮してます、
あんな(といっては何ですが)蜀でも成り立っていたのは、
彼の敏腕な内政があったからこそと言っても過言では無いです。
有能な部下(姜維)も残しましたが、
その後蜀は滅亡へ向けて下降を辿り、
姜維の死とほぼ同時期に滅亡します。
時代が変貌期であったのもあるけれど
孔明の抜けた穴は大きかったのだと思います。
彼は軍事司令官ではなくて、有能な総理大臣…政治家です。
又「天下三分の計」は当時としては目新しい意見だった訳でもなく、
他国(魏や呉)では、流転や仮宿住まいの蜀は眼中に無かった事もあり、
三分の計以前に魯粛が孫権に「二分の計」を進言しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE
正史を読む限りでは軍の統率力は抜群だったみたいです。
しかし、奇略を考え出すことは不得手だったみたいですよ。
皆さんの言われている通り「三国志演義」の影響で大軍師、宰相のイメージがありますが、実際の諸葛亮(孔明)は文官であって戦闘指揮はからっきしだった様ですね。
また、優秀な文官、武官の部下を生かすことが出来ず更迭と粛清を繰り返しています。(「演義」では”泣いて~を斬る”などと描かれていますが・・・)タダでさえ人材の少ない国でこのような事を繰り返していた為、孔明死後スグに蜀朝は瓦解したのはある意味当然のような気がします。
イエスマンしか周りに置かなかったのかもしれません。
軍事面でも天才的というのは「演義」の影響ですね。
多くの人がそういうイメージを持っていますね。
実際は何度も北伐に失敗している事から分かるように、
軍事的才能はあまりなかったようです。
かなり大規模な戦略を立てる能力はあったと思います。
天下三分の計は孔明が考えていますからね。しかし、それも呉の周ユが生きていれば魏と呉の天下二分になったっぽいです・・。それに、赤壁で負けた魏は外征がキツかったので、なくなく劉備に蜀の地域を渡す形になりました。
このように大規模な戦略はたてられますが、いざ実際の戦となると定石・ありきたりの戦略のような戦いが多く臨機応変さにかけていたと思います。
劉備が死んでからは幾度となく北伐を行っていますが、結果的には魏・蜀の痛みわけのかたちになっています。蜀が魏に勝ったとは到底言えません。
しかし、蜀の国力は魏の10分の1ほどにも関わらず魏に侵略されなかっただけでも孔明の内政面の能力はずば抜けていたと思います。
孔明の天才的な能力は、軍事面ではなくその内政の能力にあったのだと感じます。
政治や外交的能力は優れてたそうですが戦術はからっきしです。
この人のすごい処はあれだけ人口の無い国力の低い国で2,3年に一回という浪費(軍事行動)を侵し、尚且つ蜀は豊かだったことですね。
地元の少数民族(苗族とか)では今でも語りつながれ親しまれてるそうですよ。
孔明は地元の産業や治水、農業技術の促進にも尽力したそうです。
でも笑えるのは地元では7回捕まって7回放されたのは猛穫では無く、孔明という事になってるとか。つまり唯一圧倒的勝利で勝ち得たはずの南蛮征伐さえ本当は・・・?(笑)。
でも、支配側の人間であるにも関わらず孔明の公平な統治を2千年近く経た今日でも彼らに忘れられなかったという彼の人柄を物語る逸話には、私は感動しました。支配国と植民地の立場なのに
PS:因みに「軍師」という言葉を使われたのは彼が歴史上初だそうです。
「軍師将軍」という地位を拝命してる。代名詞の発祥になった人が戦争下手とは皮肉ですよね。
天才軍師は「三国志演技」のイメージで、
実際は内政が得意分野だったとゆうことですが。
(つまり、解説の方の言われた通り)
軍事面の段取りや作戦が天才的だった見たいです。実践には弱い見たいです。
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