2012年3月29日木曜日

三国志は実話ですか?今日、テレビ見てたら、諸葛孔明が、敵に囲まれて、絶対絶命...

三国志は実話ですか?今日、テレビ見てたら、諸葛孔明が、敵に囲まれて、絶対絶命の危機のなか、門を開いて琴を敵に聞こえるように弾いて、敵の大将がそれを聞き、その余裕のある旋律から、これは罠だと、勘違いを

して、引き上げてしまうという話があったのですが、そんな事ってありますか?普通なら、罠かもって、思っても、尖兵隊を送って、様子を見ると思うのですが。







先の回答者さんが述べられたように真偽はともかくとして、

とりあえず「兵法三十六計」にも謳われる計略としては、

実在します。



第三十二計『空城計』

『虚ナルハコレヲ虚ニシ、疑中ニ疑ヲ生ゼシム。

剛柔ノ際、奇ニシテマタ奇ナリ。』



空城の計は、圧倒的に守兵が少なく、

篭城も出来ない状態で取る苦肉の策です。



よく、城を攻める場合は、攻勢側の兵力は守備側の3倍といわれますが、

守備側が圧倒的に少数な場合、

四方から雲霞のごとく攻め込まれないようにするためにとる、

絶体絶命の対処策です。



攻める方の指揮者が、無能だったり、猪突猛進タイプなら、

策略という認識はなく、

躊躇せずに開け放たれている門から突入するでしょう。

そうなれば、城内に潜んで不意打ちを賭けても、

絶対数が違いますので多勢に無勢で玉砕してしまいます。

仮に通常の攻城戦のような力押しの戦法をとられたら、

それこそひとたまりもありません。



ですから、

そういう何も考えずにイケイケで攻撃するタイプの部将が率いる敵には、

この策は通用しません。



演義に出てくる諸葛亮の空城の計は、

第一次北伐の街亭の戦いに敗れ撤退する際に、

追ってくる司馬懿に対する策略ですが、

諸葛亮と司馬懿という一流の人物同士だから通用したのです。



質問者さんが言われるように、先兵隊を出すか、間諜を放つかすれば、

空城の計は絵に書いた餅なのでしょうが、

相手が諸葛亮だから何かあるという先入観があり、

司馬懿の頭の良さもこの場合はあだになって、

諸葛亮も司馬懿が裏の裏を読むだろうと考え、

その通り、裏の裏を読んでしまったのでしょうね。

まあ、演義の描かれ方ですから、

諸葛亮の神算奇抜ぶりを際立たせるため、

いつものように司馬懿が犠牲になってしまったのです。



ちなみに、

演義で空城の計はこれ1 回ですが、

正史にも空城の計が出てきます。



魏書文聘伝に、

孫権が文聘が立て篭もる石陽を包囲した際、

打つ手がなく、城中の者に決して動かないように命じ、

孫権が、策略と深読みし援軍を恐れて退却した例と、



蜀書趙雲伝に、

定軍山の戦いで趙雲が曹操に対して空城の計を仕掛け、

曹操は伏兵を警戒して軍を引いています。



一流同士の対峙の場合、

「城を囲えば、防戦するはずなのに無防備である。もしかしたら、

計算外の兵力や、何かしらの想定外の策略があるんじゃないか」

と、必要以上に慎重になり、うかつに攻撃をかけるようなことをしません。



この「空城の計」は、相手が智謀の持ち主であることが条件であり、

その相手の微妙な心理状態を逆に利用する策といえます。

諸葛亮も趙雲も(文聘はたまたまな気がしますが)、

相手の力量を十分評価して、心理を見抜いて、

この策をとったのでしょう。



司馬懿や曹操が凡庸な将だったら、

諸葛亮も趙雲もその城が終焉の地となったいたでしょう。








空城の計は、演義の創作でしょう。

しかし、日本でも、三方ケ原の戦いで、家康が浜松城をそうしましたよね。







三国志演義には創作が多く、「空城の計」はその典型です。

諸葛亮(孔明)は三国志演義の話とは正反対に奇策を殆ど用いない人でした。



下記のサイトを読めば分かります。



三国志の現実→人物評価の虚実→過大評価された人物→諸葛孔明

http://www.geocities.jp/fghi6789/gunji.html#shokatsukoumei



但し、「空城の計」自体は必ずしも荒唐無稽な策ではなく上手くやれば使えそうな気もします。

(実際に徳川家康が武田信玄と戦った際に使っています)







基本的に実話です。、しかしその後に、実話を元に中国の人がいろいろな伝説やフィクションを加えながら受け継いできたといわれています。一般的に知られているのは、三国志演義といって、そうしたものや、それに、さらにアレンジを加えた本や漫画等などだと思います。その中には、ありえないことも多々あります。したがって、一概に実話とも言えません。

質問のエピソードは本物でしょう。先の人が書いている通り、空城の計といい他の武将も使用しています。単純な策のため司馬仲達は、諸葛孔明が、伏兵を置いていないわけがないと考えて退いたのです。孔明は、仲達が策士だから攻めては来ないだろうということまで考えていたのです。

ちなみに、実話として陳寿の正史がありますが、正しい歴史というよりは政府による歴史書のため都合のいいように書かれていて更に、面白くないです。







三国志の説明はkanshinさんが説明されているので省きますが、質問者さんがあげている話→空城の計について。これは史書には書かれていないのですが、史書の正史三国志に注釈をつけた裴松之という人が「蜀記」という書物から引用しています。しかし、空城の計をやられた司馬懿は当時別の地方(荊州)が任地であり、そこにいるのは不可能。また諸葛亮が少数の兵で城を守り、大軍を魏延にあたえるなど、諸葛亮の方針からは考えられない。もし司馬懿が現地にいたとすれば、例え伏兵がいたとしても大軍を擁しており、何を恐れる必要があろうか。備えを厚くし、慎重に行動するはずで、たちまち退却するはずがない。以上の理由から裴松之はこの話に信憑性はないとしています。







三國志は実際の歴史の話ですが、そのエピソードじたいは架空の話です。



中国の後漢王朝末期から魏・呉・蜀の三國が統一を巡って争った時代を三國時代(180~280年頃)と言い、その時代を記した歴史書を『三國志』と称します。

『三國志』は後世に高い評価を受け、その時代の人物や逸話は人々の間で広く語り継がれました。そこに民間の伝承や数々の異聞や創作が加わり、『三国志平話』という講談の形にまとまります。

それを下敷きに歴史書『三國志』を洗い直し、史実に近いエピソードを取り上げ荒唐無稽に過ぎるエピソードを削除し、元末明初(1400年頃?)に成立したのが『三国志演義』という小説です。作者は羅貫中と言われますが、諸説あって定かではありません。

『三国志演義』は「史実七分に虚構三分」と言われ、大筋を史実に沿いながらも随所に架空のエピソードが盛り込まれ、物語を盛り上げるのに一役買っています。質問者さんの挙げたエピソードもそのひとつです。



この『三国志演義』が名作として非常に高い評価を受け、日本でも広く読まれ人気を博しました。中でも爆発的にヒットしたのは第二次大戦の直前に吉川英治氏がオリジナルエピソードを交えてアレンジした『三国志』で、これを受けて日本では三国志というと通常この『三国志演義』から吉川英治『三国志』と続く一連の小説・漫画群を指す場合が多いですね。







あれは演義だけでの話だとは思いますが、それでも諸葛孔明がまぎれもない天才軍師であったことは事実でしょう。

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