三国志で関羽は孫権に斬首され張飛は短気が祟り暗殺され劉備は病死し孔明は五丈原の陣中で病死しましたが趙雲と馬超と黄忠はそれぞれどんな最期を遂げたんですか?
趙雲・・・演義では229年に子の趙広・趙統がそろって孔明のもとを訪れ、『ああ、趙雲が死んだ』と悟るとあります。70歳を過ぎての老衰或いは病死と思われます。
馬超・・・演義の物語からは突然姿を消しますが、正史によれば222年に47歳で病死しています。
死に際し劉備に『一族のもの200人は皆、曹操に殺され、残ったのは従兄弟の馬岱のみです。くれぐれも馬岱のことを陛下にお託しします』と後事を託したといいます。
黄忠・・・演義によれば、夷陵の戦いで、敵を深追いして、凌統・潘璋の伏兵に取り囲まれて矢を射かけられて負傷します。
絶体絶命となったそこへ関興【関羽の息子】・張苞【張飛の息子】の援軍が駆け付け救い出すが、その矢傷がもとで、『この年まで生きたので悔いはありません。どうか天下を統一してください』と劉備に言って死亡しました。
生年不詳で70歳前だったといわれています。
人間には寿命というものがある。
趙雲は229年の第三次北伐前に病死。
馬超は222年に病死している。
黄忠は正史と演義で死に方が違っていて
正史では220年に病死しているが
演義では222年の夷陵の戦いの時に馬忠から受けた傷がもとで
死んだことになっている。
こんな感じです(^^
趙雲は病死です。黄忠は演義では夷陵で戦死してますが、正史では前触れなく「死んだ」とあるのみ。黄忠と馬超は病死だったかどうかは定かではありませんが、戦死したというわけではなさそうです。
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