三国志から。泣いて馬謖を斬った孔明。
三国志から。泣いて馬謖を斬った孔明。故事ともなっているこの言葉ですが、
泣いて馬謖を斬ったことにつき、蜀政の見地から当失の再評価をお願いします。
私には失策に思えてならないのですが。。
馬しょくを高く評価していたのは孔明だけです劉備も馬しょくは口だけで使えないと言っていますしそれどころか劉備は馬しょくは使えないが魏延は使えて武才も張飛を超すと認めて関中を守らせているので実際には無能な将を斬っただけで失策ではないと思います
馬謖が諸葛亮の指示に背いてと言う話はどこまで信じたら良いのか。
実際諸葛亮が山頂に布陣したらいけない、等という記述は史書を見る
限りでは読み取れません。
この時の北伐は、諸葛亮が西方を安定させるまでの時間稼ぎではない
かと見られているので、時間的にはそれほど長期間街亭を抑える必要
は無かったと考えられます。短期的防衛と考えると、山上への布陣と言う
のは地勢的に利にかなっています。
この時は相手が張コウと言う、魏でも当時屈指の名将が出てきたことが
馬謖にとっての不運でした。魏側もすぐに街亭を抜きたかったはずですが、
馬謖の布陣を見るや、彼は敢えて包囲するだけの一見持久策と思える
行動を取る。そうして相手の不意をついた所で水道を絶ち、地勢面の
不利をあっという間に覆してしまった。
この辺りは敗戦の理由にはなりますが、勝敗は兵家の常と言う通り、処刑
の理由、なんてことにはならないはずです。
つまり馬謖の処刑理由は敗戦そのものとは別の所に理由がある、と見た
方が良いでしょう。実際、布陣に関して責められた記述は見られません。
この場合は他人の伝の所にちらほらと見られる逃亡等が原因かと考え
られます。これが原因では諸葛亮も庇いようがなかったのでは。
馬謖はもう一番弟子じゃなくなっていたかと...でなきゃ諸葛亮がわざわざ天水なんて攻めないでしょ。あの状況で天水を攻める必要性は低かったかと。必要性があったとしても、兵や食料や金を犠牲にするほどではないですね。多分、きゅういが欲しくていったんでしょうね...その時点で、一番弟子じゃないですね...それに処刑しなくても良かったといいますが、あんな事しなけりゃ勝ってたかもしれないのに....それに、もし負けてたとしても、あそこまで犠牲は大きくならなったでしょうね。それに失敗したやつが責任をとるのは昔も今も当然の事ですからね。三国時代で失敗して斬られた将なんてたくさんいますし、諸葛亮としても示しがつかなかったので、処刑したのでしょう。もしくはきゅういに一番弟子のざをとられて、馬謖が実は謀反をおこそうと計画していたのかもしれませんし...それかたんに諸葛亮がもう馬謖は用済みと判断したのか、他の家臣達から嫌われていて、他の家臣達が殺せーとか言ったかですね。
諸葛亮の一番弟子の一人で期待のホープだった馬謖を処断してしまったことですが大目に見てもよかったんじゃないか?と自分も思います。
しかし、蜀漢が出来て、劉備が亡くなり、その後蜀科など法律・制度等を充実させて間もない頃に第一次北伐として街亭を攻めました。諸葛亮の言うことを聞かず、馬謖は自分の能力を自分で過大評価し過ぎたのか、勝手に山頂に布陣し、敵に孤立させられ、兵糧等も尽き、敵にコテンパンにやられました。この責任を死罪としたのはこの被害に匹敵するぐらいの損害だったからだと思います。
確かに失策という説も有力です。
ただ、正史には、街亭の失敗で投獄されてた馬謖が逃亡をくわだて
失敗して斬られたという記述もあるのです。
さすがにこれは斬られてもやむを得ないのではないでしょうか。
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