三国志に詳しいお方、(質問の数が多いのですが)教えてくださいっ!
私は三国志が(三国志演義?)好きなのですが、ネットで調べるのも限界があるので、いくつかわからないことを質問します。
・有名な武将(張飛、関羽、趙雲、甘寧、その他色々)は最前線で戦ったのですか?将軍っていうのは前線で殺されたら大変だし、後ろで指揮をとるくらいだと思うのですが、指揮を取っていたら、○○と一騎打ちをしたとか、戦場を暴れまわったとか、そういう武勇伝のような活躍をするのは無理だと思うし、指揮を取るのは軍師さんの仕事じゃないですか?
・なぜ劉備が主人公なんですか?曹操が強いから曹操が主人公でもいいと思うのですけど・・・。
・諸葛孔明ってなんであんなに、神様みたいになっているのですか?普通の人間だし、とても頭が良かったのは知ってますけど、敗戦が多い感じがするのですが・・・。
・ゲームで火計という計略があるのですが、水計もあります。水計って本当に実在したのですか?
・知ってるのが作り話(三国志演義)のお話ばかりなのですが、本当の三国時代はやっぱり個々の武将が伝説のような活躍をしたわけじゃないのですか?
・どうして三国時代の末期は魏が快進撃して、蜀と呉がバタバタと潰れたのですか?突然すぎると思いました。
・三国時代の食事はどんな感じだったのですか?(一番気になることです)
実際に三国志では一騎打ちらしいものはほとんど行なわれていません。
また三国志の時代、中華は既に集団戦法が確立しており基本的には
指揮官はそのほとんどが後方で指揮をするタイプになっています。
普段は後方で、どうしても、と言う時だけ前線に立つこともありうる、と言う
程度ですね。
軍師として軍を率いた人物もやっていることは同じです。実は両者の境界
と言うのは非常に曖昧で、違う点は前者は平民、貧民出自の者が多く、
後者は知識人層出身者が多い、と言うぐらいでしょうか。
三国志演義のイメージで色分けられていますが、実際はそんなにきっちり
と分かれていた訳ではありません。例えば呂蒙等は呉の軍師タイプですが
彼は平民出身で最初は一兵卒として戦い、徐々に能力を認められ大軍
を統率するようになっていきます。これなどは関羽や張飛等と同じような道
を辿っていることが分かりますよね。彼もある武将を自ら撃ち殺した記述が
史書の方にあり、元々は非常に武辺者だったことが伺えます。
軍師も将軍も名前こそ違いますが同じようなことをやっていた、と言うのが
結論ですね。もちろん下の方がおっしゃるように助言タイプの人もいました
がそう言う人は別タイプと言うことで除外して考えています。
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主人公が劉備なのは三国志が終わり、晋の時代になって以降、中華の
北半分は異民族に度々支配される、と言う歴史がありました。そうした中
で同じ南方政権であった劉備達に共感し、彼等を高く評価する風潮が
できてきたのです。逆に曹操は北方政権=異民族と同じ奴等だ、と言う
ことで悪役として刷り込まれていってしまいました。こう言う歴史の流れから
自然と劉備を主人公(善)とする風潮が出来上がっていったのだと考えら
れます。
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上の劉備と同様の理由で諸葛亮も絶対悪くは言えないのです。なので
演義では他の人の功績を蜀の人達(諸葛亮や関羽)の功績にすり替え
諸葛亮が失敗するなら他の誰がやっても駄目だ、と言うイメージを植え付
けるようにしたのです。
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水計については下の方もおっしゃってますが、関羽の荊州北部での戦い
の時や曹操と呂布の戦いの時に実際行なわれています。なので実在した
と考えて良いです。
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伝説的な活躍云々は蜀側は特に割り引く必要があります。関羽、張飛、
諸葛亮辺りは極端に書かれてることが多い(顔良を一騎で斬り殺したとか
一人で長坂で曹操全軍を追い払った、とか一通の書状や舌戦で相手を
殺害した等というのは・・・)ですね。
まぁ、蜀側での一個人が相手軍を云々と言うのは大抵が眉唾です。実際
はある程度兵を率いてたんだろうな、ぐらいに思っておいてください。
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三国志の末期ですが、元々戸籍人口が激減してたため、魏ですら国境を
維持するのが大変だったのです。具体的には漢の全盛期には4000万人
以上の人口だったのが三国志の時代には三国合わせても800万人に届く
かどうか、と言うぐらいの落ち込みです。更に魏の場合北方異民族と接する
エリアがかなり広かったので、そちら方面にも兵を裂かねばならず、その分も
含めると初期の頃は各戦線を維持するのが精一杯、と言う状況だったと考
えられます。
ただ屯田政策によって魏は広く流民を集め、生産力を上げ国力を上げる
ことに成功しました。これらを積み重ねていくことで魏と他の二国との国力
差は徐々に広がっていき、実際に攻略した時には圧倒的な差ができていた
のです。何故それまで攻略しなかったのかと言えば、蜀には山越え、呉には
河越えと言う難事があったためでしょう。これら自然の要塞のため、多少有
利程度では簡単に攻略はできなかった、ということですね。
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食事はあまり詳しいことはわかりませんが、北は小麦、南は米、と言う習慣
は既にあったようです。また酒に関してはたしかに当時はアルコール度数が
低いものばかりだったのですが、曹操が上奏した書の中に酒の醸造法に関
するものがあるそうです。これは日本酒の醸造法とほぼ同じらしく、いわゆる
どぶろくとは一線を画する酒造法が既にこの頃あったと考えられます。
また彼の息子の曹ヒはぶどう酒を好んだ、と言う記述も確かあったと思います。
恐らくシルクロードを通してなのでしょうが、ワインなどもあったのではないかと
考えられます。酒の話ばかりで申し訳ない。
補足は文字数オーバーでもう書き込めません。すいませぬ。
・有名な武将(張飛、関羽、趙雲、甘寧、その他色々)は最前線で戦ったのですか?
最前線で戦う将もいる。
魏では「張遼」などが合肥の戦いにおいて「甲冑を着込んで戟を持ち、先登になり敵陣を陥れる」と、ある。自ら武器鎧に身を包み、選抜した兵を率いて城塁に突撃したとのこと。
呉では「淩統」、同じく合肥の戦いで危機に陥った孫権を救出すべく、側近300を率いて敵に突撃、側近は全て死に、淩統自身も全身に傷を被ったが鎧を着たまま川に飛び込んで逃げ、辛くも命は助かった。
・なぜ劉備が主人公なんですか?曹操が強いから曹操が主人公でもいいと思うのですけど・・・。
大義名分、道義的な部分で後世の評価を得易いからだと思います。
魏は漢の皇位を奪い取った逆臣であり、それを打倒し漢を再興しようとする蜀は
後世の人からすれば奨励・擁護するに道理がある。
正史の主人公?は曹操であり、注釈を混ぜるとその掲載文数は圧倒的。
・諸葛孔明ってなんであんなに、神様みたいになっているのですか?普通の人間だし、とても頭が良かったのは知ってますけど、敗戦が多い感じがするのですが・・・。
三国時代といっても中身は一強二弱、蜀はそのなかでも恐らく勢力としては最弱、その最弱勢力の実質指揮官の諸葛亮は格好の判官贔屓の的であり、蜀建国の道義性と相まって後世の評価を得やすくなっている。
敗戦はあるものの馬謖の失態以外で大敗といったものはなく、また、直接攻撃で司馬懿を散々に討ち破っていることから
これは司馬懿の実績から考えるに、司馬懿が野戦に弱いのではなく、諸葛亮が強かったと見える。
・ゲームで火計という計略があるのですが、水計もあります。水計って本当に実在したのですか?
荀攸が下邳攻めにおいて水計を行っています。
また、董卓が異民族討伐で逆に包囲された際、魚を取るフリをして川を堰き止め、密かに自軍を通過させ、敵が気づいて追ってきたところで堰を決壊させて水を流し、追撃を振り切って脱出している。
・知ってるのが作り話(三国志演義)のお話ばかりなのですが、本当の三国時代はやっぱり個々の武将が伝説のような活躍をしたわけじゃないのですか?
合肥の張遼、白馬津での関羽、宛での典韋、常山における呂布の戦い、
劉虞戦での公孫瓚など
挙げれば切りがないが、どれもが圧倒的劣勢・少数で目覚しい大活躍をしたものを列挙しました。
・どうして三国時代の末期は魏が快進撃して、蜀と呉がバタバタと潰れたのですか?突然すぎると思いました。
蜀がまず滅び、次に魏が滅び、最後まで残ったのは呉で、統一したのは晋でした。
蜀が263年で滅亡、魏が265年と見ると、むしろバタバタと潰れたのは蜀と魏であり、三国だけでみると呉の一人勝ち(280年まで存在)。
・三国時代の食事はどんな感じだったのですか?(一番気になることです)
さっぱり分からない。戦の前や、賓客が来たときに家畜を潰して振舞う話などが正史にでてきますが普段、何を食ってたのかは分からない。
・三国時代の娯楽(趣味)って何ですか?
書道や囲碁、作詞など、曹操のエピソードにこれらがでてくる。それ以外だと分からない。
・私は周瑜が大好きなのですが、彼にまつわるお話とか、プライベートなレベルで何か知っていますか?(私が知っているのは、酔っても音程の違いが全て分かることくらいです・・・)
軍事的なエピソードには事欠かないのだが、プライベートは分からない。
歴史的に正しい様相は、本などで多数出ていますので、詳しくはそちらでどうぞ。
まず、「軍」と言うものは総指揮官だけで動くわけではない、ということです。
軍は多数の部隊によって成り立ち、部隊ごとに指揮官(隊長・下士官など)がいます。武将らはそういった部隊指揮官なのです。
それを総指揮、つまり大本営がまとめています。
この時代はまだ、指揮官温存と言う考えがまだ浸透しておらず、士気を上げるために指揮官が先頭に立って部隊を引っ張るということもよくありました。
その中で、一騎打ちもあったでしょう。実際、指揮官が突出してアッサリ戦死して部隊が一瞬で崩壊……ということも、古代中世の合戦ではよくありました。
軍師参謀の本来の役目は「助言・アドバイザー」です。こうした方がいいよ、と助言するわけです。実際そのアドバイスを採用するか否かは、指揮官の裁量です。
「判官びいき」というものがあります。劉備の蜀は、国力的にもかなわないのに、必死で魏と戦い続けました。たとえ弱くても、その必死さがドラマになるでしょう。英雄物語、特に中国史は「勝者を誉め殺す物語」ではありません。
陰謀で殺された岳飛など、強い思いを持つ主人公の生き様がドラマになるのです。
日本でも、源義経や楠木正成が人気があるのは、同じ理由です。
中国の歴史物語は、軍師がたいてい「仙人」のような神秘的な人物に仕立て上げられているケースが多いのです。
神の様な知略で、勝利を導くと言うのが、痛快ですから。
いわばリアリティ重視の、現代小説と、単純に比較できません。
日本でも、豊臣秀吉の「高松城の水攻め」というのがあります。
中国は古代から、黄河やその支流の洪水に悩まされてきました。川際に敵の拠点があったら、川を利用しようと思うのはむしろ当然でしょう。
関羽の襄燓城攻めで「水攻め」したのは記録にもありますし、呂布の騎馬戦術を防ぐため曹操が小沛攻めで水攻めしたのも史実。
無論、表現はオーバーだし、フィクションも多いです。
でも、演義小説としては「三国志」は他と比べても創作は少ない方ですよ。
人口的な才能の枯渇ですね。
国が小さい蜀や呉は、第三世代くらいに人材がかなり枯渇しました。一方、国土が広く、初代曹操が人材発掘に気を配った魏は、次々と新人材が現れたのです。
また、三国鼎立による国内の安定化が、国土の広さによる経済力の差を露骨に表れてきました。
君主の才能の差と言うこともあるかもしれませんが、個人の能力は国力でいくらでも挽回可能です。
調味料が今ほど無く、自然に近い味で煮炊きして食べていました。
すでにこの頃には、「北は小麦、南は米」と言う食習慣が広まっていました。
曹操などは宴会で、香辛料をタップリ使ったスペシャルなお酒を作って楽しんでいたそうです。牀(しよう)という折りたたみ椅子も戦場では使用されるようになっていましたが、宴会の時は正座が多かったようです。
アルコール度数が低く、酔っ払うのに大量に呑む必要があるため、張飛の酒乱などは創作です。
高杯(たかつき)と言って、長い脚がついた金属製のコップで、すするように呑んでいました。
金属製の大きく深い皿に料理を入れ、箸で小分けして、料理を食べていたようです。
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