三国志で諸葛孔明が玄徳の軍師ではなく曹操の軍師になっていれば曹操は(あまり戦をせずに)統一をはたしたと言えますか。
孔明が軍師に登用された時期にもよりますがあまり活躍は出来なかったでしょう。
曹操の実家は有力で士大夫クラスの階層と交流があり陣営にははやくから知識人や官僚が参加して謀議に預かっていました。
さらに献帝の擁立に成功したことで後漢の朝廷の官人すら取り込み人材を発掘していました。
よって孔明が曹操に仕えても年齢からいってもその他大勢の若手官僚からはじめなければならなかったのです。
天下三分の計にしてもそもそも呉の孫権が曹操に屈服せず戦うことから赤壁の戦いが発生したように蜀をえるまでの劉備陣営は勢力も弱く他者の動向を利用するしかない状態でした。
孔明という軍師を劉備が得られなければ呉の孫権が長江を遡上させた軍で蜀を取り魏と呉が南北に対峙して競う南北朝時代がはやく展開されたかもしれません。
確かに孔明が劉備ではなく曹操に仕官していたら、劉備軍団は赤壁の戦いの前に解散していたかもしれません。その結果、曹操の全国統一ができたでしょう。
でも、それは有り得ない話だと思います。なぜなら、孔明という人物は、自分の才能が十二分に発揮できる勢力以外には仕官したくなかったのです。そのことは、「自分を管仲・楽毅に比していた」ことから分かります。
管仲は春秋時代の名相、楽毅は戦国時代(中国)の名将。つまり、孔明は自分の仕える勢力にとってなくてはならない存在でなければ仕官したくなかったのです。
当時、孔明が仕官できる勢力は4つありました。曹操、孫権、劉表、そして劉備です。
でも、曹操の配下は人材が多すぎて、孔明がそこに仕官して重用はされますが、地位はそれほど高くなりません。
逆に、劉表は孔明の親戚ではありますが、人材の活用ができる器ではなかったため、これもパスです。
孫権は名君で人材が必要ではありましたが、周瑜、張昭の二人との関係があまりにも緊密なので、孔明の居場所はあまりありません。
彼らに比べて劉備は、抱負があり、君主の器があり、しかしその抱負を実現してくれる戦略家が欠如するという、孔明にとって仕官できる最高の条件が揃っていました。
ですから、孔明が劉備に仕えるのは、歴史的に必然なことだったと思います。
う~ん。どうでしょうか?
他の方がおっしゃられているように諸葛亮は戦があまり得意な人物ではなかったんですね。
ただ政治面においては卓越した才を持っていたので司馬仲達と2人でコンビ(仲達が軍略、孔明が後方支援)をくんだら曹操の生きている間に統一ができたのかもしれませんね。
まぁ曹操の時代には仲達嫌われて重用されてませんでしたけど・・・・・
三国志に関しては後世作られたフィクションの部分が、あたかも史実であったかのように認識されている面が今でも残っており、特に劉備陣営に関しては、その傾向が顕著です。諸葛孔明その人に関しても、軍略と言うよりは治世に優れた、一級の政治家として評価する見方もあります。
曹操は自身、優れた戦略家です。その時点その時点で、最良と思われる選択をしているように思われるのですが、どうでしょうか。(赤壁に関しても、いまだに解明されていない部分が多いようです)
孔明は演義での誇大化が過ぎる存在なので、魏にいたとしても、錚々たる人材の海に埋没していただけかもしれないですね。
その他大勢の文官で一生を終えていたかも。
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