2012年3月21日水曜日

三国志の無敵の軍師孔明の最期はどのような死に方だったんですか?悔いなく死ねた...

三国志の無敵の軍師孔明の最期はどのような死に方だったんですか?悔いなく死ねたのかな?曹曹の軍師に負けたんですよね。上には上がいたと言うことでしょうか?
。ついでに劉備の息子の最期は?ホントにダメ息子だったのでしょうか?







諸葛亮の死因は、ひと言で言うと過労死です。

度重なる北伐に置いて、要職にありながら常に陣頭指揮を執り、激務に追われた結果の病死ですので。

必ずしも司馬懿に敗れたわけでは無いのですが、司馬懿は亮の死を見越して持久戦に持ち込む作戦で見事に勝利を得ました。

劉備に後事を託されながら果たせずに死んだのですから、さぞ無念であった事でしょう。



劉禅は蜀の滅亡後、魏において安楽公に封じられ、その名の通り安楽な暮らしを送って65歳で没しました。

宴席で蜀の音楽が演奏された時に無邪気に喜んで司馬昭を呆れさせた事、また別の時に司馬昭に「蜀を思い出すか」と尋ねられて「ここの暮らしは楽しいので思い出す事は無い」と答えて周囲を呆然とさせた事、蜀の旧臣・郤正の諫言に従って「先祖の墓のある蜀を思って悲しまぬ日とて無い」と答えを改めたものの、司馬昭に「郤正と同じ事を言う」とからかわれて郤正の入れ知恵によるものである事を馬鹿正直に告げてしまった事など、バカ殿ぶりをいかんなく発揮したという事です。

「演義」において彼の幼名とされている「阿斗」は、中国では馬鹿者の代名詞となっているとか。








魏の軍師・司馬懿と蜀の軍師・諸葛亮が五丈原という場所で対峙してました。この五丈原の戦い佐中に諸葛亮は病死します。なので志半ばだったと思います。悔しかったでしょう。司馬懿もすごい軍師ですがこの戦いで諸葛亮に感服させられたと発言してるのでやはり諸葛亮が1番でしょう。劉備の息子・劉禅は阿呆でだめ君主と罵倒ばかりされてますがそうではなかったみたいです。劉備死後、諸葛亮など有能な名士がいたのもありますが、43年間国を保っています。君主が良くなければこんな続きません。実際劉禅は思慮深くい人だったみたいです。







その頃の蜀に魏に比べ人材が非常に不足していたようです。そのため諸葛亮は、軍事や内政、司法、人事、その他雑務などたくさんの仕事をしなくてはなりませんでした。なので彼の死は、過労による病の可能性が大きいと思います。本当に悔しかったと思います。戦いでは、魏の軍師の司馬仲達との戦いでしたが、魏のほうが人員も物量も蜀を圧倒しており、仮に孔明が魏軍を、仲達が蜀軍を指揮していても魏の勝利に終わったことでしょう。劉備の息子の劉禅ですが、孔明が戦いを有利に進めていた時に都に呼び戻す(魏に買収された家臣の讒言によって)などしています。暗愚の代名詞などで使われることもあります。蜀が魏に敗れたあとは魏にとってかわった晋の安楽候に封じられ、その後暗殺などされることなく安らかに息を引き取ったとされています。







234年春2月、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥方面の戦いにおいて魏に敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月23日、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。



諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却することになったが、その途中で魏延と楊儀との間に争いが起こり、楊儀が勝って魏延は殺された。蜀軍が引き揚げた後、陣地の跡を検分した司馬懿は「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。



諸葛亮は、漢中の定軍山に魏が見えるように葬られたという。遺言により質素な墓とされた。



諸葛亮が死去したという知らせを聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去したという。また同じく官位を剥奪された廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうのだ」といって涙を流したという。李厳・廖立の両者は、いずれも失態を演じて諸葛亮によって平民に落とされたが、諸葛亮ならば罪があっても最終的には才能を評価して再び起用してくれると考えていたのである。このことから部下の諸葛亮への信頼の大きさが分かる。



劉禅は民衆や異民族が諸葛亮の廟を作って祀りたい、もしくは成都に諸葛亮の廟を建立したいとの希望を一度は却下した。しかし、民衆が勝手に廟を立てて密かに祀っているという事実と、習隆・向充の上奏を受けて、成都ではなく沔陽に廟を立てている。(『襄陽記』)



これがおおよその最後です。決して戦で負けたのではなく病気に負けました。

戦中、蜀に大量の書簡が送られています。今後の蜀の方針や人事についてだったようです

死の間際まで蜀のために生き負け知らずであったんでしょうね

0 件のコメント:

コメントを投稿