2012年3月21日水曜日

三国志の夷陵の戦いについて質問があります。私は横山光輝版三国志しか知らないの...

三国志の夷陵の戦いについて質問があります。私は横山光輝版三国志しか知らないのですが、関羽の仇討ちのため呉に攻め込んだというのではなく 、
実際は荊州の失地回復のためというのは本当ですか?あと夷陵の戦いでの敗北で蜀が受けたダメージはどれほどのものだったのでしょうか?







魏志『劉曄伝』では、違う理由が述べられています。

関羽死後、曹ヒが家臣に「劉備は呉に報復戦を行うか?」と質問した際、家臣たちは「蜀で名将と呼べるのは関羽のみ。その関羽が死んで軍勢も減っている今、蜀に戦う余力は無い」と答えたのに対し、劉曄は「劉備は国力が衰えているからこそ、逆に武勇を国内に示さなければならず、父子同然の関係である関羽を殺されて黙っていたのでは声望を失うので、必ず戦を起こすはずだ」と答えています。



劉曄はこの発言の後も蜀、呉の動きを完全に読んで進言を行っていますが、その際しばしば「劉備の怒り」に言及しているので、劉備が関羽を殺された事に対して、激しい怒りを持っていた事も間違い無いでしょう。

また劉曄は、劉備の意図に関して「呉を滅ぼす」つもりがある事には触れていますが、荊州の失地回復については全く言及していません。



よって劉備の目的は、関羽の仇討ちと国内に対する示威の二つだったと言えます。

荊州の失地回復に関しては、おそらく副次的な目的に過ぎなかったと思います。



蜀のダメージについては、正確な数字は示されていませんが、かなりの物であった事は間違いありません。

夷陵の敗戦後、第一次北伐まで4年の歳月を要していますが、これは劉備の蜀制圧~漢中出兵までの期間と同じです。

また孔明の南征に関しても夷陵のダメージを回復させる為に行ったものです。

さらに魏は孔明が第一次北伐を開始した際に天水、南安、安定の三郡が瞬く間に降伏するなど、見事なまでに混乱していますが、これは魏が夷陵の敗戦、劉備の死で蜀は既に死に体だとタカをくくっていた為です。

まさかそんな短期間で出兵準備が整うとは思っていなかったという事であり、逆に言えばそれだけ夷陵で蜀が受けたダメージが大きかったという事でしょう。








人材面の損失も大きかったです。



有名どころでは「白眉」で有名な馬良が戦死し、定軍山の戦いなどで軍師として活躍した黄権が蜀に戻れず魏に投降しています。



軍事の有為の人材を失ったことで、諸葛亮は内政・外交・軍事全ての面で自分が陣頭指揮を取らざるを得なくなりました。







劉備は「荊州回復、関羽の弔い合戦」を称して出兵しましたが、荊州回復は無理やりこじつけた理由に過ぎず、本質的にはやはり関羽の弔い合戦であったといってよいでしょう。

趙雲、諸葛亮ら重臣がこぞって反対していることからも、当時の蜀の状況から見て、呉と兵火を交えることは兵力の損失の面からも、外交関係から考えてもまったく無益であったことが伺えます。



また、夷陵戦での蜀の動因兵力は正史には明記されていませんが、稗史などでは戦死者10万とも数十万とも言われています。

仮にこの数字が史実の数倍であったとしても、人口が100万そこそこの国で一挙に数万の兵士を失うということになれば、敗北の時点では致命的といってよい数字で、まさに天険に救われたとしか言いようがありません。

0 件のコメント:

コメントを投稿