三国志で最高の軍師って、実際は誰だと思われますか??
孔明でないであろうことはなんとなくわかるのですが。。。
「軍師」という言葉を、政策立案も兼ねた戦略家とするか、戦争における戦術担当とするかで評価は変わってくるでしょうね。
前者であれば国家の方向性を示したという点で魏は荀彧、呉は魯粛、蜀の諸葛亮ですが、やはり魏が超大国となりえたのは荀彧の戦略に負うところが大きいので彼に一票。
後者の意味合いであれば真っ先に名前が浮かぶのは賈詡と荀攸。
特に賈詡は実際の活躍を見ても、史書でも「陳平、張良に比肩する」と評価されているほどですので、やはり彼に一票ですね。
「惜しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、悲しいかな奉孝」と曹操に言わしめた郭嘉に一票。実務は全くしないが、その的確な進言はまさに名参謀。
「皆私と同輩で郭嘉だけが年若く、後事を託そうと思っていたが、思いがけず早世してしまった。残念な事である」これも曹操の言。
私は賈言羽が最初に浮かびました!!
彼は負け戦をしていないのでは!?
最も戦争においてですが…
沮授、田豊やホウ統、法正などなど、仕える君主を違えた方や早死になさった方の活躍がみたかったです
政治面で…閻圃はどうでしょうか??よく知らないのですが、、、曹操も登用していました
カクカ・ホウセイは最高かは分かりませんがかなり有能だったといいます。ホウトウも軍事面なら諸葛亮をも凌ぐ程だったと思います。
この三人はもしも長生きだったらば、歴史が(カクカは曹操に「カクカさえ居れば・・・」と言われ、ホウセイは諸葛亮に「ホウセイさえ居れば・・・」と言われ、ホウトウが生きてれば、諸葛亮もその政治の腕を振るえたことで)変わったと言われます。
諸葛亮を除けば、陸抗・ホウ正・カクカ・ホウトウがかなり有力だと思います。
ホウ統しかいない。
戦術家としてはこいつしか居ません。
あそこで死ななければもうちょい歴史は変わったはず。
郭嘉が生きていれば赤壁も多少変わったと思う。
戯志才ではないでしょうか?
同郷のジュンイクの推挙で曹操に仕えました。
時期的には呂布との戦いから遠術あたりに仕えていました。
病の為に早世しました。仕えていた期間は数年でしたが、彼の死後曹操は策謀を相談できる人物がいないと何度もジュンイクに手紙を送っています。そこで推挙したのが郭嘉、程イク、劉ヨウでした。
しかし、一同に戯志才の後任では荷が重いと一度は遠慮するほどでした。
郭嘉も捨てがたいですね。
曹操にあった時にワザとボロボロの衣服で合い、逆にそれが気に入られます。そして郭嘉も曹操を真の主と確信したのです。
そして、戯志才の死後、謀略を事あるごとに相談していました。
彼も風土病に冒され死亡しますが、参謀の中では彼が最も若く、後事を彼に託そうと考えていたほど信頼されていました。
赤壁の戦いの敗戦後、「郭嘉が生きていればこのようなことが無かっただろうに…」と嘆かせましたし、戦に負けるごとにこの台詞を言います。
私も一番に郭嘉が浮かびました
郭嘉・荀イク・周瑜・司馬懿・鳳雛・徐庶・魯粛・諸葛格(孔明の甥)・陸遜・法正・・・
郭嘉かな・・・。
最初に頭に浮かんだ。
郭嘉だと思います。彼がいれば赤壁では負けなかったと曹操が言っているくらいですし。
いろんな意味で曹操だと思います。
やっぱり諸葛孔明でしょう。
劉備死後、蜀の政治、軍事、外交全てを取り仕切り、その上に大国魏へ北伐を開始していますからね。こんなタフな人はなかなかいないでしょう。また北伐が滞りなく進められたのも孔明の力量があったからです。司馬懿ではここまでできないでしょう。
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