2012年3月13日火曜日

三国志で劉備がどのようにしてちょうひ、かんう、ちょううん、こうめいに出会った...

三国志で劉備がどのようにしてちょうひ、かんう、ちょううん、こうめいに出会ったのか

北伐とはなんなのか教えてください







当時、中国(当時は後漢)は黄巾の乱の真っ最中であり、後漢政府はその対策として兵を募集していました。劉備の住む町にもそれが書かれた高札があり、それを見ていた劉備は、偶然居合わせた張飛と意気投合し、酒場で酒を飲んでいました。そこで二人は酒を飲んでいた関羽と出会い三人はまた意気投合します。その後腐敗した後漢を正すため立ち上がることを決心した三人は義兄弟の契りを結びました。



孔明が登場するのはそれから約20年後のことです。旗揚げをした劉備たちですが、思うようにうまくいかず流浪の毎日を過ごしていました。そんな中劉備は人物鑑定家の司馬徽(しばき)先生から孔明の存在を聞きました。その後劉備は何度も何度も孔明の自宅に訪ねますが、いつも孔明は留守でした。しかし三度目にして遂に孔明と出会います。劉備の天下を想う熱い気持ちに心打たれた孔明は劉備の家臣となり、その後類稀な才能を生かして劉備を蜀の皇帝まで押し上げました。



孔明を得た劉備は猛烈な勢いで領土を広げますが、219年孫権(そんけん 中国南東部を制した実力者)に攻められ関羽は捕えられ処刑されます。しかもその数年後張飛も寝首をかかれ、部下に殺されてしまいます。しかもその部下は孫権のもとへ逃亡・・・・本当の弟のように愛していた関羽・張飛を殺され、怒り狂った劉備は打倒孫権を掲げ、孫権を攻めます。序盤は圧倒的な兵力を誇る蜀軍が優勢でしたが、孫権軍の名将陸遜(りくそん)の奇策によって蜀軍は大敗します。弟達を失い、戦に敗れ多くの家臣を失った劉備は数年後孔明に蜀の未来を託しこの世を去ります。



蜀の指導者となった孔明は国力を充実させ、かつての宿敵孫権(このころ孫権は皇帝となり呉を建国しています)と同盟し、強大な魏(先に説明した曹操の子曹丕(そうひ)が建国した国、当時蜀や呉と比べ遥かに強国でした)に対抗しました。孔明は魏を滅ぼすため何度も何度も兵を繰り出しました。このことを一般的に「北伐」といいます。しかし孔明は道半ばで病に倒れ(働きすぎによる過労死だったとも)亡くなりました。ちなみに孔明亡き後蜀は衰退し、やがて魏に滅ぼされました。








趙雲についての記載がまだないようなので書かせていただきます。

趙雲(子龍)は、趙雲が公孫攅(伯挂)という人物に使えているときに劉備(玄徳)と出会い、劉備の仁の心に憧れついていこうとしましたが一度は断られました。

それからしばらく、偶然曹操(孟徳)の元から帰る関羽(雲長)に遭遇し、次こそは劉備につかえました。

死亡については、年老いても若者に負けじと頑張りましたが、無理をしすぎて病に倒れ、229年に死亡しました。

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