2012年3月18日日曜日

横山光輝三国志や三国志演義では孔明死後は滅亡までサラッと書いてありますが実際...

横山光輝三国志や三国志演義では孔明死後は滅亡までサラッと書いてありますが実際は38年も存続しています。


38年というのは、かなり長い期間だと思うのですが何故そこまで存続出来たのでしょうか?

①孔明の作った基盤がしっかりしていた

②劉禅が実はソコソコ良かった

③臣下に有能な人材がいた

④三国とも統一のやる気がなかった

⑤その他









…はて?

諸葛亮の死去が234年で蜀漢の滅亡が263年なので38年ではなく29年のはずですがね?

それに『三国志演義』では諸葛亮死後も詳細に長々と書いてますよ。姜維の連年の北伐と郭淮との数々の名勝負、夏侯霸の来降、費イ[示韋]が降将郭循に刺殺された事、魏の司馬師・司馬昭兄弟に対する文欽・文鴦親子や毋丘倹、諸葛誕らの謀反と敗死、曹髦のクーデターとその死、司馬炎の簒奪と晋の成立、呉の孫権の後継者問題と孫亮・孫休治世のゴタゴタ、諸葛恪・孫峻・孫チン[糸林]の専横、孫晧の即位と暴君ぶり、陸抗と晋の羊コ[示古]との交流、晋の杜預・王濬・王渾らによる呉への侵攻と統一まで、きっちり全部書いてあります。

ま、日本の三国志ものの漫画や小説はたいてい諸葛亮が死んだら打ち切っちゃいますけどね(爆)。



で、蜀漢が諸葛亮死後29年も存続した理由ですが、1~4全て該当します。

諸葛亮は建国するにあたり、伊籍ら4人と「蜀科」という法律を制定します。これが滅亡まで国を治める基本法となっています。

また、劉備はわずか2年で亡くなったので蜀漢のほとんど(40年)は劉禅の治世ですが、その間異民族以外の反乱がほとんど確認できません。人口の約1割を兵士に徴用する超軍事国家だった蜀漢でこれは奇跡的な事実です。諸葛亮らの土台があったにせよ、これは劉禅の為政者としての能力の証明になるでしょう。

諸葛亮の死後は蒋エン[王宛]、費イ、董允をはじめ有能な政治家が250年代まで中央政界を導いており、軍事的にも姜維らだけでなく多くの人材が出現しています。単に有名でないだけで、魏に数倍の人口とそれに比例する人材の豊富さがあるために目立たないだけです。

三国それぞれの統一のやる気がなかったかどうかについてはkg_4649さんが詳述しておられる通りです。








⑤その他

敢えて言うなら、④の「やる気がなかった」のではなく、「それどころではなかった」というのが正解に近いでしょうか。



・司馬氏が魏を乗っ取る過程で内部の権力争いが激しかった事。(司馬懿VS曹爽の宮廷内闘争、司馬昭に対する諸葛誕の反乱など、時間がかかった)

・呉の侵攻、公孫淵の反乱など、対蜀以外の軍事行動も忙しかった



司馬昭が魏をほぼ乗っ取った時点で蜀遠征→蜀滅亡(263年)→晋王朝樹立(265年)→呉滅亡(280年)と急ピッチに進みました。

呉滅亡までの間に鮮卑の反乱もありました。







秦嶺山脈と長江はおいそれと突破できる障害ではないから。



結局これです。

0 件のコメント:

コメントを投稿