三国志演義と正史の違い
赤壁の戦いにおける、演義と正史の違いを教えてください。
孔明の活躍する部分など、演義には脚色があります。
10万本の矢を船で集めたり、祈って南東からの風を吹かすなどは正史に全く見当たりません。
あと、火攻めについても異論がありはっきりしていない部分があります。
そもそも演義の赤壁の戦いとは明の初代皇帝「洪武帝」が陳友諒を火計で倒したハ陽湖の戦いを元にした創作です。
まず演義と正史での相違点
・孔明の矢集めはなかった。(集めたのは孫権。)
・孔明が周喩を説き伏せて会戦させた。(もともと周喩は曹操と戦う気まんまんだったので孔明は説き伏せてない)
・孔明が東南の風を起こした。(いうまでもなく嘘。)
三国時代の各国での赤壁の記述。
魏 「疫病が発生したので船を焼いて撤退」
さてほかの人から何故船を焼いたのかという疑問がでていましたが、それはもって帰れなかったからです。
曹操軍23万は人数は多いものの占領したばかりの荊州の兵士と中原からの兵士の混合軍。
当然兵士同士で確執があり連携がとれません。それでは戦で一番難しい撤退戦ができるはずがなく、
結果として大量につくった船を相手にくれてやるならいっそ自分達で焼き捨てて撤退するというのが魏での記述です。
呉 基本的に演義に準拠。
諸葛亮の活躍は劉備と孫権の連合成立以外ありませんが・・・。
後はほとんど周喩ら呉の面々のがんばりと、曹操軍での凶事(兵站の問題や風土の違いからくる疫病。水軍の錬度の違い)
がかさなり奇跡的に勝利することに成功。といった感じです。
まず正史の記述ですと、「三国志」のうち、「呉志」には記述が多く、
・孫権が机を切りつけて真っ二つにし、「降伏をいうものは、この机と同じようにする!」といった話
・黄蓋が偽って降伏し、火計を用いて曹操の船団を燃やした話
・周瑜が孫権を説得する話
など、さまざまな逸話が載っています。
一方「魏志」には単に「疫病で撤退した」という記述があるだけです。
「蜀志」には記述が全くと言っていいほどありません。
「呉志」と「魏志」には記述に矛盾がありますが、このような矛盾はほかの部分にもあって、
これは、『その勢力・人物に都合の悪い記述はあまりしない』という原則に基づいて
書かれているためだと思います。活躍した話は積極的に載せているわけですから、
この戦いは呉の陣営が魏の陣営に一方的に勝って、蜀の陣営はほとんど参加しなかった、という
のが正史における記述だと思います。
演義では諸葛亮をはじめ蜀の武将が大活躍しますが、
それらはすべて創作か、呉の武将の功績の横取りです。
陳寿の正史「三国志」が、魏・呉・蜀の三部構成なのはご存知ですね?
実は、「赤壁合戦」の記述は、それぞれで記述が異なり、実態が分かりにくいのです。
最も詳しいのは呉書の「周瑜伝」「黄蓋伝」です。周瑜が大都督として指揮を執り、兵に大演説して励ました・・・という記述があります。また黄蓋が早船で、魏軍の艦隊に放火した記述もあります。
魏書にはあっさりと、「疫病が流行したので、船を焼却して帰還した」(武帝紀=曹操伝)とあるだけ。でも、疫病だからって、船を焼く必要はないような気がしますが・・・。
蜀書には、赤壁の記述は全くなし。「先主伝=劉備伝」にも「諸葛亮伝」にも、書いていません。「周瑜伝」に、周瑜に「あんたらジャマだから、これは我々で戦うから引っ込んどいて」といわれた、という記述もあって情けないですね。
演義のこの場面は、様々な要素をモザイクのように組み合わせ、さらに「十万本の矢」「七星壇」のようなフィクションのエピソードも混ぜたものです。
こういう芸当は、中国人は上手いです。日本作家が真似しようとしても、なかなか上手く行ってないですね。
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