三国志の質問です。蜀の軍師ショカツリョウという方がいますよね?
彼はどうして「天下三分」を唱えたのでか?
こっそり蜀を奪って呉を奪えば軽く魏にも対抗できたと思います。
あと戦争の終わりの事も考えられるのは、迷信ですよね・・・?
三顧の礼により出会った劉備の人柄に惚れ込んだ諸葛孔明は、なんとかしてこの人に天下を取らせることは出来ないか?と考えた。
しかし、曹操の魏、孫権の呉の勢力は現時点ではどうしようもない。
では、もう新規勢力が漬け込む隙すらないのか。いや、ある。
それが西の蜀地方だったということです。
当時、劉備は基盤、本拠地をまったく持っていなかったので、まず基盤造りから行わなければならなかった。それがないとどうしようもないですから。
これが成れば、天下は三大勢力によって分割され、とりあえず三すくみ状態になって時間を稼ぐことが可能になり、その間に勢力を蓄え、呉との連携を確立させて魏に対抗しようとした訳です。
それ以外に劉備に天下を取らせる方法は無い。と考えたのでしょう。
こっそり呉を奪うは無理です。
事実上、こっそりは不可能だし(呉は蜀の3倍の勢力)蜀は呉と協力して魏に両方から同時に攻め込むことが出来なければ魏には対抗出来ません。
事実、蜀は呉を戦ってボロクソに負けてしまい、滅亡を促進したようなものでした。
更には、小説、漫画の影響で諸葛孔明が天才軍師であるとのイメージがありますが、実際は有能な行政官ではあっても戦術指揮官としては並以下だったと史実ではなっています。
そんな人の立てた作戦では、蜀があれだけ持ったほうが奇跡に近いと思われます。
戦争の後のこと、というよりは内政面での後継者を指名してますが、それも2代後まで。それ以上蜀は存続するとは思ってなかったそうです。
軍関係には特に無かったそうなので、キョウイ辺りが勝手にやりだしたというところです。
あと、上で「諸葛亮孔明」とありますが、これは間違いです。
諸葛が姓、亮が名、孔明は字ですが、中国では姓+名、姓+字で記すことはあっても、姓+名+字で記すことは絶対ないそうです。
なので、「諸葛亮」又は「諸葛孔明」と記さなくては間違いとなります。
当時魏蜀呉の三国の中で魏は圧倒的に兵力・人材・資力を備えており魏が天下を取るのは時間の問題でした。しかしそこに現れたのは諸葛亮孔明という天才!しかしながら孔明はなぜか曹操の御眼鏡にはとまらなかったようで劉備の所に行ってしまいます。。。そこで孔明が考え出したのが天下三分の計であります。曹操は自分が今まで一つしかないと思っていた天下があと2つもあるとしたら・・・と動揺し、劉備は劉備でこの時代は王と名乗ったものが王になりえることを思想としていましたからそこに天才孔明がまんまと上手く計を張り巡らせて権力を3分し、それによって風評と知名度、名誉をえた劉備は人材を確保し、呉と和しながら魏とギリギリ戦える状況に持っていったとされております。
天下三分の計、これは結局偶然にも曹操が食いついてくれたから成立した計であると言えましょう。曹操が食いつかない、もしくは孔明が劉備につかなければ、中国の三国時代はより多くの人の命を奪わずにすんだでしょうに。。。もっとよく三国志を知りたければ漫画「蒼天航路」をお勧めします!素晴らしい漫画ですよ!
三勢力が同等の力を持つことが出来れば、
どの国も先に動くことが難しくなります。
AがBを攻めれば、その間にCに攻め込まれる可能性があるからです。
また同盟を結んでも裏切られることも考えられます。
この辺りのことは三国志の物語でも描かれていますよね。
史実については、参考URLをご覧ください。
強大な力を持っていた魏に対抗するため、
多くの戦略家が三分の計を考えていたことが分かります。
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/koumei3.htm
当時すでに 北に曹操 東に孫権 とう一大勢力が基盤を築きつつあったので 西で とりあえず 割拠して 天下三分して その後に 天下統一を目指そうとしたわけです
こっそり蜀をうばい 後に呉を奪い 次に魏を奪う
だからそれこそが天下三分の計です
まあ こっそりってわけにはいきませんが
私の考えですが、当時の蜀の勢力では統一を果たすのは不可能で、半島を三分割させるのが最良の策だと考えたのでしょう。事実、孔明は呉に赴き、魏への戦争を仕向けた記述が残されています。当時に両国に攻め込まれたら恐らく蜀は滅びていたでしょう。
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