三国志で蜀が滅亡する分岐点はどこだったと思いますか?
孔明が魏を攻めた時からです。
何度も攻めずに国力を貯めるべきでしたね。
でも、魏とは国力そのものが全く違いますから、いずれ蜀は滅びる運命だったと思いますけどね。
蜀が滅びると分かっていたからこそ、無理にでも攻めて勝機を掴もうとしたのでしょう。
そもそも国として維持不可能だったと思います。
蜀漢は曹操に対立する劉備の勢力、曹操の勢力に常に蜀漢の正当を主張し敵対していなければ
国家の大義名分がなくなってしまいます。
だから、差が明らかであっても外征を続けなくてはならない状態でした。
蜀漢の後半、諸葛亮の北伐も明らかに無謀であり、国を疲弊させながらも続けられたのはそのような理由であると考えます。
と偉そうに申しておりますが、実は受け売り。もし興味を持って頂けたら高島俊男先生の『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)をお勧めします。
私的には、劉備玄徳が水鏡先生(司馬徽)に出会った時点ですかね。
水鏡先生に出会わなければ、徐庶にも会わず、孔明にも会っていないので蜀建国は無かったでしょう。
龐統の死だと思います。
孔明の対魏戦略は以下のとおりです。
①呉との連携
②荊州方面から上将軍に許昌方面に侵攻させ、同時に漢中から長安に侵攻し奪取
③長安の物資、人材の調達
④西域との交易により、経済力を強化、異民族との関係強化
⑤西域の名馬の調達、騎馬民族との同盟による戦力強化
⑥魏による漢朝廃止を契機に討伐
この内、龐統の死により、益州に入りますが、①と②の成功の鍵は呉との外交なので、孔明が直接関与できた方が成功の確率が高かったと思います。
また、龐統の死で行政の仕事を分担できる人物が減ったことも、孔明の負担を増やしてしまいました。
軍事的に、とても重要だった荊州を失ったところだと思います。
同時に、関羽を失い、その後の夷陵の戦いで張飛、馬良を失ったことが大きかったと思います。
そのあとに、劉備も死にますしね。。。
人材が少なく、劉備、関羽、張飛、諸葛亮等の人材で成り立っていた蜀は、このおもな人材を失ったことによって、滅亡の一手をたどっていくことになったのでしょう。
諸葛亮の無理な北伐も国力を弱める原因になったとは思いますが、やはり荊州失陥が原因でしょう。
蜀の成立が劉備が帝位についた時として考えます。
蜀を滅ぼしたのはトウ艾ですね。そのトウ艾を見いだしたのは司馬懿でした。司馬氏の派閥に属していたので活躍したと考えると、司馬懿がクーデターで国権を握った時というのはどうでしょう?
蜀ができた時からいずれ滅ぶ運命だったと思います
やっぱり荊州を奪われたときでしょうね。
益州と荊州でようやく天下が3分されたぐらいですから。(でも実際曹操が8割を占めていた)
軍事的にも荊州はとても大事ですね。
あとは人材を次々と亡くしたことですね。
ホウ統、関羽、張飛のあえない最期。もとから人材が薄かった分、彼らの死はあまりにも大きい物でした。
また、法正がはやくに亡くなったのも劉備にとっては痛かったです。
劉備は「孝直(法正の字)がいうんだから」と法正の言葉を重んじていました。
法正が長生きしていれば夷陵の戦いはなくなったかも知れません。
その夷陵の戦いで白眉でしられる馬良も死んでしましました。
このように劉備は数年間のうちに数々と名将たちを失っていきました。
それも滅亡の一つの原因ではないでしょうか?
決定的だったのは段谷の戦いですね。
これでもう蜀の滅亡は決まりました。
しかし蜀の衰退の根源は関羽敗死、荊州簒奪です。
僕も荊州失陥の時だと思います。
少なくとも荊州失陥と夷陵の戦いが、
ただでさえ小さい蜀の国力に決定的なダメージを与えてしまいました。
無論荊州を保持していたら蜀の天下になっていたとは思いませんが、
その後の戦略を転換せざるを得なかったと思います。
また人材的な部分で言えば、蜀攻略戦での龐統の死だったのかもしれません。
彼がいることで、内政の諸葛亮と外事の龐統という住み分けができ、
戦略を立てるのが楽になっていた可能性があります。
法正の早逝もそうですが、参謀または戦略家の人材不足は決定的だったと思います。
最初から滅亡しか選択肢はなかった。
諸葛亮らが配下になったのは滅亡の時期を遅らせただけ。
諸葛亮を迎え入れ、さらに時間をかけて蜀を建国しているが、その時には既に挽回不可能なくらい国力に差が出来てたので、どうしようもない。
官渡で曹操が負けなかった時点で曹操の勝利は確定し、それまでに一大勢力を築けなかった劉備の負けは確定していた。
荊州を失った時点ですね。ここから蜀の不幸が始まってます。
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