三国志。諸葛孔明が魏と戦ったのは、何の乱(又は戦い)ですか?
「危急存亡の秋」と言いますか?
諸葛亮(蜀)が反乱を起こしたのではありませんので、「~の乱}とはいいません。
蜀ではなく「諸葛亮」と限定されるとなると、
魏との戦いは、俗に言う「北伐」と呼ばれる戦いです。
諸葛亮自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われました。
228年春の第一次北伐は、
最初の内こそ上手く行っていたものの、
諸葛亮の指示に背いた先鋒の馬謖が張郃に撃破され、
その後蜀軍は撤退します。(街亭の戦い)
228年冬の第二次北伐は、
攻めあぐねてるうちに食糧不足により撤退します。
撤退時に追撃してきた王双を討ち取っています。(陳倉の戦い)
229年春の第三次北伐は、
陳式が武都・陰平を攻め、
諸葛亮が魏の郭淮を防ぎ、武都・陰平の両郡を平定しました。
231年春2月から始まった第四次北伐は、
同年夏6月に食料不足により撤退します。
撤退時に追撃してきた張郃を討ち取りました。
234年春2月から始まった第五次北伐は
屯田を行い長期戦に持ち込みますが、
同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没しました。(五丈原の戦い)
【危急存亡の秋(とき)】
生きるか死ぬか、存続するか滅亡するの分岐点、
それが【危急存亡の秋(とき)】です。
章武五年(227年)、
諸葛亮は魏への大規模な軍事行動、すなわち北伐を開始します。
これに先立って、諸葛亮は蜀漢の皇帝である劉禅に上表し、
その決意と自身の留守中の注意を述べました。
師(いくさ)を出すにあたり出した表、出師之表です。
先帝創業未半而中道崩殂
今天下三分益州疲弊
此誠『危急存亡之秋』也
これは、出師之表の冒頭部分です。
諸葛亮は、先帝の遺業を継ぎ、
魏と戦いぬくというう悲壮なまでの決意を示しました。
蜀の地は豊かであるとは言え、
劉備の入植時に移ってきた兵卒や戦乱を避けて流入した難民が多く、
それらを賄うには厳しい状況であったと考えられます。
また、敵国・魏に比べると国力の差は歴然としていました。
そのために、蜀漢が生き残るために、
積極的に打って出て事態を打開させようという算段だったと思われます。
春から夏にかけて、農民は穀物を実らせ、
兵卒は訓練を重ね、季節は移り、収穫を終えて、軍備も万端整ってきました。
いざ存亡を賭けた戦いへ赴くとき、それこそまさに秋なのだと思います。
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