2012年3月23日金曜日

三国志はなぜ見事に鼎のように三つの国が出来たのでしょうか?

三国志はなぜ見事に鼎のように三つの国が出来たのでしょうか?

誰が考えたのかは知りませんが、これほどドラマティックな物語はないでしょう。

やはり天下三分の計というのは事実で孔明の戦略が当たったと解釈していいのでしょうか?







2つの勢力がある。どっちにも従いたくない。まだ空いてる土地で独立宣言しよう。3つになった。



これのどこが独創的な戦略なのかさっぱりわかりません……。



ちなみに中国でも世界でも三国鼎立はわりとありふれています。バランスがいいんでしょう。たとえば、



南北朝末期の北斉・北周・南朝陳の三国鼎立



9世紀の唐・ウイグル・吐蕃(チベット)の三国鼎立



11世紀の宋・遼・西夏の三国鼎立



朝鮮半島で百済・新羅・高句麗の三国鼎立



同じく朝鮮で新羅・後百済・泰封の後三国鼎立



日本の戦国時代で武田・北条・今川の三国鼎立



武田・北条・上杉の三国鼎立



島津・大友・龍造寺の三国鼎立



アレクサンドロス大王死後のプトレマイオス朝・セレウコス朝・アンティゴノス朝の三国鼎立



3世紀のローマ帝国・ガリア帝国・パルミラ帝国の三国鼎立



9世紀の東フランク王国、西フランク王国、ロタール王国の三国鼎立



ビザンツ帝国・アッバース朝・ハザール王国の三国鼎立



……いくらでも類例はあげられます。





バランスがいいなぁと思うのは、7~9世紀北インドのパーラ朝・プラティーハラ朝・ラーシュトラクータ朝の三国鼎立です。

なんせ一進一退の攻防を三百年近くも続けています。








天下三分の計は別に孔明の独創ではありません。ごく当たり前の考えです。



広大な東アジアでの南北2カ国の対立王朝は珍しくもなんともなく、魏と呉の対立状況に前王朝の復古を名目にしてちっちゃい勢力がはじっこに入りこんだだけ。

だから三国鼎立とはいっても面積は兎も角、人口比は10対5対2くらいで、決してバランスが見事とはいえないです。







南北二つに分かれるのは

その後もちょくちょくありますから

そこに蜀漢が割って入ったわけです

そう考えると孔明の戦略が当たったと考えていいと思います

蜀漢は魏はおろか呉と比べても随分小さな国ですが

守りやすい地形と孔明の尽力で結構長持ちしました







3大勢力があって誰も天下統一できるほどの力が無かっただけでしょう。



特に曹操の魏は、孔明のいた蜀と違って



豊かで安定していたので無理してする必要も無かったでしょう。



3つの勢力が残って3つの国ができた。単なる結果論ですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿