至急お願いします。
三国志の諸葛孔明のあらすじ?
みたいのを書くのですが書けないので
教えてください。
http://abc0120.net/words/abc2007042504.html
からのコピペです。
三国時代の丞相。諸葛亮、字は孔明。千年に一人と言われる蜀の名軍師。政治面でも軍事面でも非凡な才能を発揮。神の如き知略で劉備を支え遂に蜀建国を成し遂げた。
若くして天下に”臥龍”と称されて臥竜岡の草盧で晴耕雨読の生活を送っていた。その折、戦略的な参謀をさがしていた劉備の「三顧の礼」(三度の訪問)によってその人柄に惚れ込み仕える事となる。この時孔明は27歳という若さであった。以後、数えきれない程の活躍によって持論である「天下三分の計」を実現させる。
呉に敗退し劉備亡き後の蜀を建て直し南蛮攻略を成功させて漢室復興を掲げ、有名な「出師の表」を作り魏討伐を開始する。結果として北伐は成功しなかった。日頃の激務がたたり第5次北伐の際、五丈原の陣中で没する。享年54歳。
天才参謀がたどった軌跡 諸葛亮、字は孔明。したがって、諸葛亮孔明、あるいは諸葛亮とするのが正しい。幼いころに父を失い、叔父のもとで育った。並外れた知性と知識の持ち主である。戦乱の世に誰にも仕えることなく、晴耕雨読の日々を送っていたところに、劉備がやってきて、「三顧の礼」を尽くされたので、参謀となる。 最初の大仕事が、全権委任大使として呉の孫権のもとに行き、同盟を組もうと説得することだつた。二〇八年、曹操が大軍を率いて南下し、劉備軍は壊滅的打撃を受けた。孫権と同盟を結ぶしか、劉備の生き残る道はなかった。だが、孫権としては、曹操に降伏するという道がまだ残されていた。孫権が劉備と結び曹操と戦う気があるのかどうかは、まったく分からない。さらに、本来ならば、劉備は孫権と対等の立場にはなかつたが、なんとか優位な形での同盟関係にしなければならない。 諸葛孔明は孫権と対面するなり、「曹操は強い。降伏したほうがいい」とさぐりをいれた。孫権は驚き、「なぜ、劉備は降伏しないのか」と訊き返した。孔明は、「劉備殿は漢王朝の血を引いているので、曹操になど降伏できない」と答えた。孫権への挑発である。孫権はそれに乗ってしまい、「私も降伏するつもりはない」と言う。「ならば、同盟を結ぶしかない」と孔明は言って、具体的に、曹操軍の兵力を分析し、劉備と孫権が手を結べば勝てることを説明した。孫権は参謀の周瑜の意見も聞いた上で、劉備と同盟を結び、曹操と戦うことを決断。こうして、劉備と孫権による反曹操同盟が確立され、曹操の誇る水軍を赤壁の戦いで壊減させるのに成功した。その後も、さまざまな戦略・戦術を立て、天才軍師として劉備に仕え、蜀帝国の建国まで導いた。もつとも「三国志」で伝えられる活躍ぶりには、フイクションもかなりまざつている。 蜀帝国の丞相になっだ諸葛孔明は、法律・制度を整備し、官職も整え、賞罰のけじめも明確にし、公平な政治をおこなった。国民から厳しい人だが正しい人だと慕われた。軍師としてよりも、内政の得意な政治家・行政マンとしてのほうが有能だったという説もある。
諸葛孔明名言「学問は静から 才能は学から生まれる 学ぶことで才能は開花する 志がなければ学問の完成はない」
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