2012年3月13日火曜日

三国志を見ていると「字(あざな)」が入ると 諸葛亮は亮を取って諸葛孔明になって...

三国志を見ていると「字(あざな)」が入ると

諸葛亮は亮を取って諸葛孔明になってしまうのですか?

趙雲子龍は趙子龍と呼ばれたり・・・







昔の中国の人は(いまでもそういう部分がありますが)、家族とそのほかの世界とを完全に分けてしまっているところがあります。



家族は家族の世界があり、それ以外の世界はまた別のものという感覚があるのです。



そういうふうに彼らの中では二つの世界があり、その各々の世界のなかで使われる名前を区別しないといけないと考えるようになりました。



諸葛亮の例をあげますと、「亮」は名(「諱」忌み名のこと。)で、家族の中で使われる名前です。彼が「亮」と呼ぶことが出来るのは、両親と上司だけなのです。

ですから、いきなり名で呼びかけるということは、無礼であるのです。



一方、字というものは、外の世界で使われる通称名みたいなもので、ある程度の年齢になって、家族という社会のほかに別の世界とのかかわりが出てきたときに、字をつけることがあったようです。

官職についている場合はその官職で呼び合うことになりますが、そうでない人は、字で呼び合うということが一般的だったそうです。








 日本でもそうでしたよ。明治期に二重名の禁令で、名を二つ持つことが禁じられたのです。江戸以前は、官職名があれば官職名を、なければ呼び名を呼ぶのが礼儀です。

 ドラマなどで平気で諱(いみな)で呼び合っていますが(分かりやすくするためです)、本当は官名か呼び名です。東アジア全体の風習で、本名を呼びたがらないというものがあるようです。

 「風林火山」でいえば、官職名のない山本勘助はしょうがないですけど、板垣は「駿河守」、甘利は「備前守」、真田は「弾正忠」と呼ばれるべきでしょう。

 

 中国では、同姓同名が多いという理由もあります。しかし、いつも呼ばれている字と、本名が違うとややこしいと言うこともあるので、慕容紹宗のように本名と字が同一の人もいます(彼は「本名と字を同時に呼んではいけない」、という例でよく言われます。「諸葛亮孔明」式にいうと「慕容紹宗紹宗」になってしまうので)。

 名前として、字と諱はまったくの同格なので、どっちか一方しか呼んではいけないんです。日本では呼び名と諱を一緒に呼ぶ習慣があるので、勘違いしてしまうんですね。(織田三郎信長みたいに)



 使用しない本名は忘れられたりします。坂本龍馬の「龍馬」とは呼び名です。諱は直柔(なおなり)ですが、そう呼ぶ人はいないでしょう?土方歳三の「歳三」や近藤勇の「勇」もそうです。だから、戦国ドラマなどで、諱で呼び合うのは歴史的におかしいんです。



 ちなみに高島俊男氏は、「字(つぃー)」を「あざな」と訳すのは間違いである、と言ってますが・・・。

 







姓は「諸葛」、名は「亮」、字は「孔明」



姓名字をいっしょには使いません。



諸葛亮

諸葛孔明



が正解



名は文章以外ではあまり目下や同輩が使うものではなく

呼び合うのは字を使ったようですね。







そうです、諸葛孔明になります。

諸葛が姓・亮が名・孔明が字ですから当然です。

陳舜臣さんは小説のタイトルで「諸葛孔明」を使っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿