2012年3月11日日曜日

三国志の時代に 孔明ではなく韓信だったら 蜀が天下を統一できた可能性はあります...

三国志の時代に

孔明ではなく韓信だったら

蜀が天下を統一できた可能性はありますか?







可能性はあったと思います。ただし限定条件においてですが・・・。諸葛亮が

第一次北伐を行なった際、魏側は蜀には劉備以外は有能な将軍はおらず、

まさか攻めてくることはあるまい、と油断していたため慌てふためいた、と言う

記録があります。



しかし、結果として魏側は思いの他素早く対応し、この時の北伐は失敗して

います。何故ここで失敗したのか、直接的には馬ショクが張コウに敗れたこと

が原因なのですが、もっと俯瞰的に見ると



1.孟達に誘いをかけ、蜀陣営に引き込もうと画策した。

(魏側に蜀に何らかの動きがある、と警戒させた可能性あり)



2.北伐に際し、趙雲が斜谷から攻めると自ら北伐の意思を示した。



この段階で魏側の警戒レベルが上がってしまったことが想定され、郡によって

は激しく抵抗されたり、ひいては名将張コウの早期派遣に繋がっている可能

性が考えられます。



では韓信なら何故可能か。韓信も同じように北伐して見事関中を攻め落と

していますが、楚漢当時、関中を治めていた章邯はその土地の民心を得て

いませんでしたが、当時でも屈指の名将として、漢中方面に睨みを利かせて

いました。



そこで韓信は徹底的に情報操作を行ない蜀の桟道を焼き払うまでのことを

して関中に攻め込む意思のないことを示し、章邯を完全に油断させ別ルート

(陳倉方面)からの奇襲を成功させています。



諸葛亮が行なった情報操作は「声東撃西」と言い、陽攻ですが攻撃する事

自体は魏に知られてしまっています。一方で韓信は「暗渡陳倉」と言う攻撃

の意思自体を隠す戦術を用い、名将章邯が睨みを利かせる、と言う諸葛亮

の第一次北伐時よりもあるいは更に厳しい状況下から北伐を成功させている

のです。



韓信のやり方ならば諸葛亮の北伐よりもさらに魏側の警戒レベルは下がること

になり、北伐成功の確率は上がったと思います。



もっとも韓信と全く同じことをやってもそれはそれで故事から韓信の真似事を蜀

はやろうとしているのではないか、と警戒されるだけですから細部は変える必要

があると思いますけどね。



限定条件と言う書き方をしましたが、結局韓信ならば北伐は成功した可能性

は上の内容からあったと考えられるのですが、これは一度しか通用しない戦術

です。つまり一度警戒されたら二度と使えないと言う意味で、どのタイミングで

仕掛けるかが非常に重要となり、韓信だから簡単に成功する訳ではありません。



またこの時は章邯の油断を誘い野戦では打ち破りましたが、篭城後は一年程

抵抗を受けています。もし章邯クラスの人物が居合わせたとしたら関中の完全

制圧は容易なものとはならないでしょう。



更に魏は項羽が治める楚に比べ国家としては安定しており、すぐに対応してくる

でしょう。時間との勝負になって来ると思います。



それでも蜀のみに押し込められ、格差をつけられる状況よりは関中を取れたこと

で戦略の選択肢は広がり、人材、兵力等における格差は縮められることとなり、

天下統一の可能性は出てくると思います。








韓信は戦争以外は何も出来ないもし孔明がいなかたら局地戦で勝っても謀略で負けて逆に早く滅んだかもしれません







韓信は用兵の達人ですが、真のグランドデザインを描けない人でした。韓信の最期はご存じでしょうが、呂后の謀略にはまり、殺されてしまいました。そんな人物です。また、韓信の相手は項羽だけでしたが、孔明の敵は英明な曹エイ、老獪な司馬懿、他にも多士済々です。荊州の保持と張良、ショウ何がいれば、可能性があるかと。それほど魏は強大で、蜀は弱小なのです。







不可能かと思います。



そもそも孔明の本業である軍師は戦略のアドバイスが

本業で、要約すると政治家。主君がいないと仕事ができません。



対して韓信は知将=軍人の才能だけじゃなく、

そこそこ政治もこなせるので、その気になれば独立勢力にも

なれる人材。特に主君は必要ありません。



その点を踏まえますと、最初の時点で国を持ってない劉備に、

韓信が仕えるメリットが見つからず。

また、義兄弟や仁義で集まった人材で占められてる劉備軍に、

韓信が馴染めるとは思えないのです。



劉備というとよく人の説得に自分の血統を持ち出しますが、韓信は

名将の子孫の項羽が自分の意見を聞いてくれないという理由で

逃げてます。血統でなびく人ではありません。

劉邦の元でもないがしろにされたと逃走したりしました。



結局彼を手なずけるのに劉邦は、破格の兵権や、王位など

損得によってようやく制御しきれたのですが、それでも独立部隊として

活躍した反面、劉邦の危機にタダで動かなかったりしてます。



要約すれば、雇うのに破格の費用を必要とするドライな職業軍人なので、

仮に臣下に加えても、戦わす以前に劉備一人では扱いきれると思えません。



無理やり従わせたとしても、劉備の指示と無関係に戦い、成果を残しはするものの

関羽辺りが黙ってるとは思えず、敵と戦う前に同士討ちになる危険性もあります。



天下を統一した君主は皆、先に軍師や知将を集め。

一騎当千の猛将はオマケ程度に集めるのが王道ですが、劉備は逆に

行動してるので1~2人人材を増やしてもどうしようもない気がします。



孔明、韓信、呂蒙、陸遜を加えて、関羽、張飛には遠征をさせず手元に置き。

速攻で長安を制圧すれば可能性はあると思いますけど。







韓信だけじゃキツイんじゃないでしょうか。



劉邦が項羽と覇を争っていた時、韓信がいた劉邦にも、何度かピンチが訪れました。



しかし、そこを張良、陳平等の参謀達による策略によって、なんとか凌いでいくことができました。



ですから、韓信一人だけでは、全てをカバーするのは無理かと思います。







あくまでも可能性とのことなのですが



200年までの

曹操と袁術・袁紹が争っていた頃に、韓信を迎えていたのなら可能性もあったかもしれません。

しかし、可能性があるのは200年の10月の官渡の戦いで曹操が勝利してしまってからでは、曹操が実質の中原の支配を確立してしまうので可能性はコンマ以下と言ってしまってもいいでしょう。



194年劉備が何らかの幸運が重なって予州・徐州を保ったまま領地の勢力を固められるのであれば、もう少しは可能性も上がったでしょう。(このころは孔明は14歳で叔父と荊州にいました。)

しかし、なんといっても人材が乏しいので194年の段階でも3㌫ぐらいかな

(*´ω`)







無理でしょう。

孔明でも苦戦したのですから韓信では無理です。

蜀は人材も不足していましたが、それ以上に決定的に国力が弱かったのです。山間地の蜀と富裕な中原を支配する魏との差は相当のものがありました。そんな魏と対等に戦えたのは孔明の力量が飛びぬけていたからです。

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