2012年3月9日金曜日

三国志の蜀で 劉備玄徳が死んだ後 孔明が皇帝になっていれば 蜀の歴史は長く続いた...

三国志の蜀で

劉備玄徳が死んだ後

孔明が皇帝になっていれば

蜀の歴史は長く続いたのでは?







それは無いだろうと思います。



いくら前主の遺言があったにしても、孔明が帝位を継げば

孔明に対して反感を持つ人間は大勢いたでしょう。



それらの勢力は劉禅こそが蜀漢の正統な後継者だと叫んで、

劉禅を擁して孔明を攻めることが簡単に予想されます。

孔明が魏を攻めに出陣したりすればすぐに反乱が起こるでしょう。



もし本気で孔明が帝位を継いで魏と闘おうとするなら、反論が起こる

前にすぐに劉禅を殺して対抗勢力を潰すしかないでしょう。

そうしたところで、人心は当然孔明に服さないために魏と闘うことなど出来ません。





そもそも蜀漢は劉氏の王朝である漢を継いだものであると称して

建てられた王朝なので、孔明が無事に皇帝になったところで、その瞬間に

蜀漢は滅亡したと考えていいでしょう。








もしも諸葛亮が、諸将から受ける信頼のズバ抜けた高さや、劉備のお墨付きもある事によって皇帝に即位したとします。彼自身はたぶん皇帝としてやって行けるだろうと思います。

しかし、劉氏以外でも皇帝になれるという先例を作れば、諸葛亮の死後にはかならず皇帝の座の奪い合いが始まり、いずれにしても内乱~自壊の道をたどる事になるでしょう。

つまり、どのようなパターンで考えても長くは続きません。



もちろん、諸葛亮はそうなることなどわかっていたでしょうから、劉備の息子が凡人であることを知っていても、劉備のお墨付きがあったにも関わらず、その座を辞退したのでしょう。

それにもう一つ、諸葛亮は皇帝の座などというものに、そもそも何の興味も持っていなかったように思います。彼が高く評価していた張良も、戦が終わったらサッサと引退しています。彼らは別の世界に住む人なのだと感じます。







それはない

いくら馬鹿とはいえ蜀には劉禅という跡継ぎがいる後継者は劉禅といっている

それでも無理矢理皇位についたら

離反が続出するに決まっているそこに魏呉が攻めてきて

建国間もないまま歴史は終了孔明は悪人として伝えられる



となると思う







普通に考えれば続きません。劉備はうそでも「漢」王朝を復興させるという旗を掲げ、曹操へのアンチテーゼを標榜することで存在してきたからです。諸葛亮が、遺言どおり「劉禅に能力がないから、帝位に就く」というのなら、これはどうしても簒奪の汚名から逃れることはできないからです。

もし、可能性があるとしたら、劉備が遺言で「次の皇帝は諸葛亮」と指名して、正真正銘の「禅譲」を行った場合ではないでしょうか。実際に劉備の遺言はあくまで「劉禅を補佐してほしい」というものです。しかし、最後の最後まで曹操へのアンチテーゼを貫き通し、「漢王朝を滅ぼす曹魏は絶対に許さない」というテーマへ移行することができたなら、諸葛亮の元に別の政権ができた可能性はあるのではないかと考えます。

当時、呉が魏との関係に苦慮し、もう一度蜀との友好関係を復活させたいと水面下で考えていた時期でもあります。同じ考えをもつ諸葛亮のほうが外交は安定すると思われます。

内部に関しては、この時点で劉備挙兵以来の家臣は少なくなり、荊州人士(=諸葛亮支持派)と益州人士が多くなっています。益州人士は曹操政権の組み込まれることが自分たちの不利につながると考えて、劉備を支持したのあって「漢王朝復興」はあくまでスローガンなわけなので、政権が続くメリットが保障できれば政権自体はできると思われます。

しかし、ここからが問題で、「長く続く」かどうかです。

諸葛亮はあくまで、劉禅の政治的・軍事的代行者としていたから、曹魏との戦争に向かうことができました。しかし自分が皇帝になった場合、かなり保守的な政権運営をしていくのではないかと思います。その間に、曹魏が手をこまねいて待っていてくれるとは思えないので、呉(実際には本気で曹魏には仕掛けません)、公孫淵、鮮卑、羌などへの外交を行い、軍事的な部分を誰かに委ねて、国力の増強に当たることになります(プラス子作りもでしょうね)。これがうまくいくかが正直分かりません。

曹魏が安定しなかったのも、実際には諸葛亮の北伐が大きな影響を持っていたのは確かなので、このプレッシャーがないとなると、比較的早い段階で国力の増大した魏が曹真を中心にした遠征軍を送ってきて蜀が大混乱に陥る可能性もありますし、逆に無難に三国並立していくということもありえますね。







劉備が亡くなった時点で魏は、呉を攻め滅ぼし

蜀を取り囲んだ状態でしたので、例え孔明が後を継いでも

長続きは出来なかったと思います。







蜀漢の歴史は短命に終わったと考えます。



国が国として機能するには、共通の目標が無ければなりません。蜀漢の場合、魏の打倒、漢王朝復古です。

劉備は自称ですが漢王朝の血筋です。諸葛亮が劉備に取って代るには、自分が劉一族の末裔だという事を信じさせるか、蜀漢の掲げた大義を変えるしかありません。



蜀漢の家臣たちは、漢王朝に臣従しているわけで、劉備個人に臣従しているわけではありません。もし、諸葛亮が帝位につけば、家臣達は大義を失い、何のために戦うのかを決め直さなければならなくなります。つまり、内戦が起こるということです。

三国の中で最弱の蜀漢が分裂すれば、魏に対してどうのようにして対抗できるでしょうか?

暗愚と呼ばれる劉禅ですが、国を一つにする吸引力としては、立派な存在価値があります。これは、諸葛亮でも及ばない事です。







ここでは続かないという意見が大多数を占めているようですので、あえて続くという可能性を示してみましょう。IFを語るのだから、そうでないと面白くない。ここでは、諸葛亮に帝位簒奪の意思があったという前提の下に話をすすめます。でないと、上記の質問自体が意味ないですからね。



確かに劉備は漢王室の再興を目指して歴戦し、王朝を蜀の地に樹立させました。

それでは、その周りの人々はどうだったのでしょうか? 劉備家臣団を分類分けしてみると…

1 劉備旗揚げ時よりの股肱(旗揚げ~前荊州時代=流浪時代):関羽・張飛・趙雲・糜竺ら

2 荊州時代に参加した人士:諸葛亮・馬良・馬謖・伊籍・蔣琬・黄忠・魏延・楊儀ら(荊州人士とよばれます)

3 入蜀後に加入した人士:馬超・法正・許靖・費禕・李厳・劉巴・張嶷ら(旧劉璋政権参加者)

この3つに分けられるでしょうね。

劉備との個人的つながりが強いのは、文句なくグループ1です。彼らは劉氏政権の維持のために大きな力になるでしょう。ですが、劉備の崩御時、存命であった有力者は趙雲だけとなります。趙雲という個人には大いにに魅力があるところですが、あくまでも1武将です。各地方政権内において中央集権化・文治化の進んだこの時代(特に蜀はその傾向が強く、後に、姜維が北伐しようにも大軍を与えられなかったとあります)、果たして趙雲一人が大勢を覆すことが出来るでしょうか?

グループ2は、俗に言う荊州人士とよばれるグループで(黄忠や魏延は性格がちがいますが)、放浪の劉備集団を一軍団として体裁を整え、後に蜀漢政権においても主要な地位を占める人々です。劉備の諸葛亮獲得の最大の意義は、諸葛亮を通じてこの荊州人士との接点を持てたとする研究すらもあります。逆にいえば、彼らの劉氏政権への忠誠心は諸葛亮を媒介にしたとみることも可能かも知れません。諸葛亮が帝位簒奪をする際におおいに力になるのは彼らでしょう。

グループ3は、益州人士とよばれるグループです(もっとも上記にリストアップしたのは多くは外来の人士で、厳密に当てはまるのはここでは張嶷ぐらいでしょう)。いわゆる益州豪族出身の人々で、在地の有力者ということですね。劉備が入蜀して以来、外来の主力たる荊州人士と益州人士との衝突は蜀漢政権において重要な問題となりますが、確かにキャスティングボードを握る勢力ではあるでしょう。ただし、劉氏政権に対する忠誠度はあまり高くなかったようで、後に蜀漢が滅びる際、降服を主張する学者譙周はこのグループに入ります。諸葛亮の存命中にも民の疲弊や天文の不利を理由として、北伐を思い止めるよう諫めてますよね。彼らにとって見れば、王朝国家という雲の上の概念より、目の前の既得権益(それだけ民衆の立場に近いのです)の維持の方が重要なのです。例えそれが劉璋政権であろうが、蜀漢政権であろうが、魏であろうが、そして諸葛政権であろうがです。もし諸葛亮がこの勢力の既得権益を保障し、切り崩しに成功できれば、帝位簒奪は目の前でしょう。



方法は前例や後例がうまく示してくれてます。彼は曹操や司馬懿になればいいのです。一代で簒奪するか否かは、彼の裁量と情勢を判断してからでしょうね。

皇帝諸葛亮の下で蜀漢政権が長続きしたかどうか、それはわかりません。ただ言えるのは、もし長続きしたとするのであれば、それは諸葛亮が天才軍師だからというだけでなく、蜀漢内部に横たわる矛盾をうまく利用できたからとすることができるでしょうね。私は上に掲げた理由で、在地の有力者たちの権益を保障し、「漢王朝の再興」に代わる政治目標を示すことで国内をまとめることは可能だったと思います。もっとも、それはすでに「蜀漢」ではなく別の王朝ですから、言葉上の理屈でいえば「蜀漢」は滅亡して別の王朝になってることでしょう。



逆説的にはなりましたが、だからこそ劉備は諸葛亮に皇帝に…と遺言するわけです。諸葛亮が上のような野望を抱かないということを重々承知していたのはないでしょうか? そして諸葛亮はただ一人、漢王朝の再興という見果てぬ夢を追い求めて戦うわけです。皮肉的な事例ではありますが、中原統一をして漢王朝の再興のために積極的に北伐したのは諸葛亮とその後継者の姜維だけでした。それだけ「漢の再興」とは蜀漢政権において最重要課題ではなくなってきたのです。後主劉禅ですら、地方の一閥であることに満足していたようです。様々な利権が飛び交い、ややもすれば目先の安楽にひたり、厭戦ムードになる蜀漢朝廷がそれでも「漢の再興」を目標として戦い続けれたのは、諸葛亮がいたからなのです。

蜀漢の方向性を示し続けていたのは、諸葛亮? それとも劉禅?







続きません。他の方もおっしゃってるので簡単にまとめます。



蜀と言うのは蜀漢とも言われ、曹魏が後漢を滅ぼしたことに対抗して、

劉姓の優秀な人物(劉備)が漢を復興させる目的で作られた国なの

です。



つまり蜀の皇帝は劉姓の人物以外ありえず、諸葛亮が皇帝になった

段階で国の存在意義がなくなってしまうのです。



以上の点から諸葛亮(劉姓以外の人物)が皇帝になる、と言うのは

蜀漢滅亡に直結することになってしまいます。







続かないでしょうね。

おそらく大きな内乱が起こります。

蜀というのは後世の呼び名であって、当時は蜀という国ではありませんでした。「漢」という国の名前だったのです。後漢王朝が曹氏に簒奪されて滅んだ後に、同じ劉の姓を持つ劉備が皇帝を名乗り漢王朝を復活させたのです。その漢の国を諸葛亮が継げるはずがありません。諸葛亮が皇帝になるということは=劉備が復活させた漢を簒奪するということを意味します。

そんな諸葛亮にどれだけの人がついていくか・・・。劉禅が暗愚だから見限って・・・という人がいたとしても、やはり劉備に対する忠義心から逆賊諸葛氏許さん!という声も多数出るでしょう。

その結果、実際よりも早く蜀の国が滅んだことでしょう。







そもそも劉備が孔明に皇帝を譲るといった発言自体が信用できません。

この話も三国志演義特有の孔明礼讃の一連の流れと思う方が自然に感じます。



蜀は「蜀漢」ともいわれ、魏に乗っ取られた漢の皇室を復興させることを目的に興った国です。個人的には劉備の出自そのものも怪しいと思いますが、一応前漢の高祖劉邦の孫である中山靖王劉勝の末裔ということですから名目上は問題ありません。

しかしながら漢室とは縁もゆかりもない孔明が皇帝となったら、国そのもの存在意義がなくなります。



孔明が皇帝につくということは「恩人である劉備が死んだとたんに、跡継ぎが幼いのを良いことに皇帝の地位を簒奪した」ということになります。

もともと孔明の周りには馬謖のように荊州出身の人物が多く、益州の人間とはあまり親しくないような印象を受けます。

孔明が蜀の皇帝になったとしたら、ますます荊州派の人間が優遇されることが予想され、益州派の人間は対抗することでしょう。

益州派の人間は地元の地の利を利用して孔明に対抗し、最悪の場合には内乱ということになると思います。



そんな状況を魏呉両国が見逃すわけがありません。

当然、両国は蜀に侵攻し、漢中は魏の領土に荊州は呉の領土になり、蜀の領土は益州のみということになるでしょう。

これにより三国鼎立のバランスは崩れて漢中の張魯のように蜀は魏に降伏する以外には生き残る道はないと思います。



つまりは孔明が皇帝になった場合は、歴史よりもかなり早い段階で蜀は滅亡していたと思います。



劉備はお人よしで死の直前は耄碌していたとは思いますが、上記のようなことが分からないほどのアホではないと思いますので、皇帝を譲るという発言自体が怪しいと思います。

孔明も当然アホではないので、上記のことが分かっているので皇帝になる気などなかったと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿