2012年3月11日日曜日

三国志の諸葛亮孔明が好きなんですが、 知恵の輪、南蛮でつくった饅頭、泣いて馬し...

三国志の諸葛亮孔明が好きなんですが、

知恵の輪、南蛮でつくった饅頭、泣いて馬しょくを斬るや空城の計など

1000年以上たってもこれだけ有名なものばかりで饅頭にいたってはやたらめったら食べてますが、

他にもなにか面白かったり、すごい孔明のエピソードがあれば教えてください

上に出したエピソードは詳しく知っていますのでそれ以外でお願いします

上以外にもそれなりに色んなエピソードは知っていますが是非皆さんのとっておきを教えてほしいです



小2の時に三国志に興味をもって、その時から孔明のファンでしたが

他にもオススメの武将がいれば是非教えてください







別に2000年近く昔の人物に失礼もへったくれも無いと思いますが。質問者さんが「諸葛孔明」のほうが親しみを感じるならそれでいいと思いますよ。私は今さら「項羽」を「項籍」と呼べなんて言われても断りますがね。



で、孔明さん。非常に筆まめな人物だったようで、呉に仕えてる兄の諸葛瑾やライバルである司馬懿とも手紙のやり取りがあったようです。話は変わって李厳。李厳と諸葛亮は権力闘争とまではいかなくとも、まぁ互いに足元をすくおうとしていたようです。李厳は北伐のある時期から漢中で食料輸送を請け負うことになったのですが、ある時長雨のせいで輸送に失敗しちゃったとか(このときの北伐では孔明が司馬懿をボコボコに負かしている)。そして諸葛亮は撤退を余儀なくされます。

孔明が帰ってくると、素直に謝ればいいものを李厳さんたら「何で帰って来たん?兵糧は十分あったでしょ?」と、撤退を孔明のせいにしようとしちゃったわけ。責任逃れですね。ここで孔明の筆まめ(ていうか几帳面さ)炸裂。孔明は李厳の手紙を全部保管していて、「この手紙が目に入らぬか!?」と、水戸黄門のように李厳を追い詰めます。結果、李厳は罪を認め庶民に落とされます。

ですが、孔明は李厳の息子に「君がしっかり働けば李厳が復職するこだって出来る」と励まし、李厳も諸葛亮が死ぬと「もう返り咲くことは出来ないであろう」と失望して死んでいきます。李厳が有能な人間だったせいもあるんでしょうけど、罰を与えてもフォローは忘れず、罰を受けた側でさえもそれを信頼している。孔明はそういう信頼を得るような人物だったんでしょうね。








孔明が戦場で病死したとき、

相手の武将 司馬懿仲達がその情報をキャッチして

一気に攻めようとします。

すると、相手側から攻めてくる人間がいました。

なんと、その人物は死んだはずの孔明でした。

これに驚き、仲達は退きました。

このことがもとになり、「死せる孔明生ける仲達を走らす。」

という故事ができました。

孔明の才能が表れているエピソードで好きです。

故事ができてるのでカッコよく感じられるのかもしれませんが。







私は、諸葛家の華麗なる一族ぶりについて。お話をひとつ



諸葛豊(少季)前漢の司隷校尉



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珪(君貢)後漢の泰山郡丞――玄、予州太守。瑾や亮の叔父、後に亮を引き取る





瑾(子喩)――亮(孔明)――均、蜀の長水校尉





恪(元遜)陽都候――喬(仲慎)――融(叔長)奮威将軍





綽、騎都尉――竦、長水校尉――建、歩兵校尉





※※※※※





亮(孔明)





喬(伯松)駙馬都尉――瞻(思遠)行都護衛将軍、平尚書事

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│_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 尚――京、晋の広州刺史





攀、行護軍、翊武将軍









※※※※※

説明をさせていただきます



諸葛家の出自については諸説あり

三国志の呉に仕えた韋昭の著した「呉書」によると、元々は単に”葛”氏といい山東省瑯邪郡の諸県に居住していたところから後に陽都(今の沂水県)に移住したところ、陽都に前々から葛という姓があり、区別するために諸県から出た葛氏と言う意味で”諸葛”と呼びならわすようになったと言うのが有力な説のひとつです



諸葛氏で最初に名前が出るのが前漢に仕えた諸葛豊と言う人物で、彼は元帝の時に司隷校尉となり剛直な正確で特権階級といえども容赦なく取り締まったことから、後に帝の外戚を処断しようとしたところ元帝の勘気に触れて左遷させられ、老年には庶民におとされて不遇に終わります



その後、三国時代までは諸葛氏の名前が表に出る事はなく

孔明の父である珪(君貢)は、後漢の末に泰山郡丞(太守の次官)になったという他には記述が見当たらず詳細は不明です

生母は章氏の女性で珪との間に三男一女をもうけて長男は瑾、次男は孔明、三男は均。

一女は龐氏に嫁しているので、諸説はありますが孔明と龐統(士元)とは、妹?の婚家に連なる義理の従兄弟にあたるかと



孔明は父母を幼いころに相次いで亡くしますが

生母の章氏が亡くなるのは兄の瑾が洛陽遊学時代の頃で孔明が10歳のころと思われます

章氏の死後に、父の珪は後妻を迎えます。しかし、数年後には珪も歿して兄の瑾は継母と共に戦乱を逃れて華北から江東(揚子江下流)に移住し呉に仕える事の遠因になります



孔明と弟、妹は、叔父の玄の元に引き取られますが、玄は命令によって南昌(江西省)の赴任する折に中央政界と袁術・劉表らの群雄割拠の状態による混乱によって、あえなく土着の豪族による叛乱に巻き込まれて殺害され、玄の亡骸が劉繇のもとに送られるなどあいついでの不幸に見舞われます

そこで、孔明は弟をつれて叔父・玄の地縁を頼って以前に住んでいた荊州に帰ることに、その後、草櫓を編んで晴耕雨読の生活をしながら勉学に励み劉備に三顧の礼で見出されます





孔明は長らく実子に恵まれなかったことから、兄の瑾から次子の喬(仲慎)を養子にもらい”伯松”と名を改める。





瑾と孔明からみて、遠縁の従兄弟にあたる諸葛誕(公休)は魏に仕えて大司空に、彼(誕)の子供・諸葛靚(仲思)は呉の大司馬。孫にあたる諸葛恢(道明)は東晋の侍中。諸葛頤(道回)は東晋の太常に



諸葛誕(公休)魏の大司空





靚(仲思)呉の大司馬





恢(道明)東晋の侍中――頤(道回)東晋の太常





そのほか、諸葛姓では



諸葛緒、魏に仕え晋の太常崇礼衛尉





冲(茂長)晋の廷尉――厷(茂遠)晋の司空主簿





玫(仁林)侍中御史中丞――婉(男姉)晋武帝夫人――銓(徳林)兗州刺史





諸葛虔、魏の将軍

諸葛原、魏の新興太守

諸葛璋、魏に仕う

諸葛直、呉に仕う

諸葛壱、呉に仕う





など、当時の人は

「蜀はその竜(孔明)を得、呉はその虎(瑾)を得、魏はその狗(誕)を得たり」

と称した

人材の価値を評したものですけども、当時の余人の栄誉をうらやむような気持ちも交じっているだろうが、諸葛氏が後漢の混乱から三国時代、晋、南北朝をとおして有力な貴族として優れた人材を輩出し続けたことは、やはり傑出したものがあったと認めざる終えないところです





ところどころ、家系図の出来がお見苦しい点はお許しください



(*´ω`)







三国志が大好きならその呼び方はしないでほしいですね(笑)



基本的に姓+官職で呼び合うのが礼節です。名(諸葛亮なら亮)はとにかく呼ぶのは失礼なものにあたりますので。



ましてや姓名と字を一緒にするなんてことはありえません。



ちなみに字(孔明)はニックネームみたいなもので、親しい者が呼ぶときにつかいます。



で、諸葛亮のエピソードですが、実は彼の出身は徐州で、幼少時に大虐殺→移住の憂き目にあったため、曹操に仕官しなかったのでは?と言われています。



あるいは、曹操配下にはすでにきわめて優秀な文官がたくさんいたので、仕官しても大活躍は見込めない・・・と考えたとも。



で、他にオススメの武将ですが、



まずは郭嘉ですね。



三国志で最も実績をあげた軍師にもかかわらず、残念ながらマイナーです。



あとせめて5年生きたなら三国志はこう(鼎立)ならなかったのでは?と思うほど強烈な戦略眼です。



曹操配下の軍師で、袁紹の死後は子供を争わせて河北統一したり、孫策に攻められそうになって”危ない”と幕僚がさわぐなか、「どうせヤツはすぐ殺されます」と予言、その後あっさり孫策は暗殺されます。



奉考(郭嘉の字)なかりせば・・・・と曹操が赤壁の敗北後に言ったのはあまりにも有名です。



あとは張遼。



武人では私の一番好きな人物です。



合肥の戦いで800人の武将で10万の孫権軍の包囲に数十日耐え、挙句孫権の本陣にまで突っ込んだのは強烈は逸話です。



正史にもちゃんと載っているのにクローズアップされません(泣)



趙雲・関羽・周喩あたりはちゃんと?有名どころでエピソードにあふれていますよ。



漢字が出ないので申し訳ないのですが、



チョウセン(居ない?)・二喬(大喬&小喬)・シンシ(シンキとも)・黄氏・ベン氏・・・・



三国志を彩る女性たちです。



チョウセンは董卓&呂布の愛人。二喬は孫策&周喩の妻。シンシは曹ヒ(曹操の息子・魏の初代皇帝)の妻。黄氏は諸葛亮の妻。ベン氏は曹操の妻です。



いわゆる”傾国”と謳われた女性たちですね。(左から4人)







「死せる孔明生ける仲達を走らす」があります。これは北伐の陣中で没した孔明が事前に自分にそっくりな木像を作らせておいて、自分の死後に撤退する際にこれを使えと命じました。

孔明の死を知った魏の司馬懿(しばい)仲達は、撤退する蜀軍を追撃しますが、孔明の木像をそれと知らずに見た途端に仰天して引き返します。その後、自分が木像にだまされたと知って「やはり孔明はすごい奴だった」と嘆息するというエピソードです。お勧めの武将ですが、蜀なら趙雲ですね。関羽、張飛亡き後の蜀にとって孔明とともに貴重な人材で、北伐にも参加しています。

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